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「夜の樹」第二十四回公演上演台本
吸血鬼祭
和田 周
 




女吸血鬼一(ラネーフスカヤ)
吸血鬼一(ガーエフ)
女吸血鬼二(アーニャ)
女吸血鬼三(ワーニャ)
吸血鬼二(トロフィーモフ)
吸血鬼三(ロパーヒン)
吸血鬼四(エピポードフ)
吸血鬼五(ヤーシャ)
吸血鬼六(フィルス)
女吸血鬼四(ドゥニャーシャ)
女吸血鬼五(シャルロッタ)



     地下劇場の裸舞台。
     舞台正面奥の壁にそって上手上方袖奥へ上り詰める階段。下手の床に墓穴とおぼしき穴。 


  一 プロローグ

     吸血鬼たち

     吸血鬼劇団の俳優たちによって『桜の園』の最終幕の幕切れの場面が演じられている。
     〔台詞は本戯曲末尾に掲載〕ゾッとするほど血の通ってない舞台である。
     ややあって、退場した吸血鬼たち、及び、今の場に登場していなかった女吸血鬼四、女吸血鬼五が、
     ぞろぞろと上手奥の楽屋から(最後に墓穴に消えたフィルス役の吸血鬼六は墓穴から)姿を現し、舞台上にひっそりと立つ。
     ロパーヒン役の吸血鬼三、舞台前面に進み出て、

吸血鬼三 ようこそわたくし共の劇場へ。ご挨拶代わりに、チエホフの「桜の園」の最終幕をご覧いただきました。「桜の園」は、わたくし共が一番大切にしているレパートリーです。帝政ロシア時代末期のある地方の寄生地主が没落して、「桜の園」と呼ばれる住みなれた領地を追われて行く・・・。この芝居のラストシーンをこうしてご覧いただきますと、すこしばかり複雑な思いがいたします。「没落した寄生地主」・・・寄生地主・・・寄生虫・・・吸血寄生虫・・・吸血鬼・・・と連想を横滑りさせると、赤字公演つづきで明日にもこの劇場から追いたてをくらいかねないわたくし共の現在のていたらくに重なるからであります。
ところで、さぞご不満でしょう。ゾッとするほどスカスカの芝居をお見せしました。どの俳優の身体からも、生きた心地がそよともつたわってこない・・・全員、舞台の上で立ったまま死んでいました。でも、お願いですから「吸血鬼が立ったまま死んでるのはあたり前じゃないか!」なんて、血も涙もない野次は、飛ばさないでください。わたくし共だってもとはといえば人の子です。演劇が模倣の芸術である以上、舞台の上で生き生きと生きてみたいと日々研鑽を重ね、前向きに生きているのです・・・「生きている」と申し上げたのは言葉の綾ですが。
劇場というのは、無邪気な約束ごとのうえに成り立っています。「嘘だけどさ、嘘じゃないことにして楽しもうよ」という。その約束ごとをたよりに、今夜、皆さまに一つ、お願いがございます。
ごぞんじのとおり、わたくし共吸血鬼は、不死身です。炎のなかに飛びこむか陽の光にさらされて焼けこげる以外の方法ではけっして死ぬことができません。いや、グロテスクな事実から目をそむけることはよしましょう。「吸血鬼は不死身です」と申し上げたのは事実ではありません。わたくし共はすでに死んでいます。炎のなかに飛びこむか陽の光にさらされるかは物理的な後始末の問題です。皆さま方にしてみれば、わたくし共が死者であることに、つまり、わたくし共がいま呼吸と心臓の鼓動を停止したまま動きわっていることに気づくのは、あまり気分のいいことではありますまい。そこで、このわたくし共の剥き出しの死から目をそらしていただくための約束ごとを、劇場の中だけで通用するゲームの取り決めのようなものを、提案したいのです。
いかがでしょうか、こうやって舞台に立って話しかけているわたしやわたくし共と、客席に座っていらっしゃるみな様方の身体の中を、いま、それぞれ別の時間が流れていることにしていただけないでしょうか。つまり、みな様方のなかには「いまこの瞬間の時間」が、わたくし共の身体の内側にだけは「かつての時間」がです。そのことによって、たとえば手術で片腕を切断した男が、夜中にベッドの上で、その切断した腕の先のありもしない指に痛みを覚えるように、わたくし共の身体の内側を幻の血が流れだします。その結果、皆さまは心やさしくも、「吸血鬼だってかつては生きていたんだな」という、通りいっぺんの哀れみからいメージを飛躍させて、たとえ一瞬でも、舞台上のわたくし共に向かって身を乗りだして、こう呟いてくださるはずです。「もしかしたらこの吸血鬼達は本物の俳優かもしれない! 死者が俳優を演じているのではなく、まるで俳優が死者を演じているみたいじゃないか!」と。そうなったらしめたものです。わたくし共一同、喜んで、舞台の上で、息をのんだり、頬をあからめたり、動悸をはやめたり、(舞台上の吸血鬼たち、ザワザワと人の気配を身におびながら舞台前面に進み出る。)生き生きと動きまわりながら、血の凍る吸血鬼芝居をお届けしようではありませんか。


     吸血鬼達、不自然なくらい愛想よく微笑みながら客席に一礼して、上手へ退場。



  二 吸血鬼祭

     吸血鬼二 吸血鬼五

     吸血鬼五と吸血鬼二、フードつきの黒いコートを頭から深々とかぶり、手袋をし、紫外線に対しての完全装備をかためて登場。
     吸血鬼二、手にしたリモコンを舞台中央の真上に向けて操作し、舞台中央に陽光ラいトに照らされた二メートル四方ほどのエリアを作る。
     吸血鬼五と吸血鬼二、フードの奥深く顔を隠し、一瞬の逡巡の後、陽光エリアに飛び込み、極度にまぶしげに身体を硬くして客席に向かって立ち、  

吸血鬼五吸血鬼二 (声を合わせ)吸血鬼劇団創立百年祭!
吸血鬼二 おめでとうございます!
吸血鬼五 ありがとうございます!
吸血鬼二 (相方の「ありがとうございます!」に一瞬引っかかるが)見ろ! あそこに見えるのが水平線だ!
吸血鬼五 水平線だ!
吸血鬼二 海の碧に 空の碧
吸血鬼五 カモメの水兵は悲しからずや
吸血鬼二 あの水平線にカモメが一列に並ぶのだ。
吸血鬼五 おれ達も並んで、
二人 (同時に)日光浴をしよう!

     と叫びながら、床にビーチ・マットを敷くが、吸血鬼五は敷いたビーチ・マットを掛け布団に見立て、その下にもぐり込む。

吸血鬼二 ・・・。
吸血鬼五 ・・・(吸血鬼二の気配から、自分の誤りに気づき起き上がり)だからさ。
二人 (マットに並んで坐り)これが日光浴だ!
吸血鬼五 日光を浴びずにケッコーというな!
吸血鬼二 日光で身体を焼こう!
吸血鬼五 ・・・(微かに怯み)身体を焼かずにケッコウというな。
吸血鬼二 オリーブの油をぬって狐色にこげるまで!
吸血鬼五 ・・・それもケッコウだが・・・(ついに我慢の限界を超えた)月光浴はどうかな(と、リモコンを操作して頭上からの陽光を月光に切り替える)・・・月光浴を決行しよう!

     二人、大きく息を吸い、フードを脱ぐ。

吸血鬼二 月光では身体は焼けんぞ。
吸血鬼五 身体を焼く話はもう止そう。
吸血鬼二 貴公、この期におよんで臆病風に吹かれたか。
吸血鬼五 ・・・。
吸血鬼二 事あらば陽の光を浴びて燃えつきるのが吸血鬼たる者の本懐ではないか。
吸血鬼五 ほんとかい?

     二人、立ち上がり、漫才の姿勢で客席に向かって立ち、

吸血鬼五 でも、「吸血鬼劇団創立百年祭」って、なんで?
吸血鬼二 ・・・。
吸血鬼五 おれ達が吸血鬼集団になって今月今夜でちょうど百年目にはいるから「おめでとう」って言われると、つい「ありがとう」ってノリで答えちゃうけどさ、百年目をなんでお祭り騒ぎにするわけ? めでたいことや祝いごとは片っ端から呪いつづけてきたおれ達がなにをいまさら「おめでとう百年祭」なんだ?
吸血鬼二 だからさ、「クソッ、とうとう百年目かよ!」って、呪って祝ってるんじゃないか。
吸血鬼五 ・・・。
吸血鬼二 それどころじゃない。じつは今夜でこの劇場も見納めかも知れないんだ。「ラプラタ合意」って取決めがあるのを知ってるか?
吸血鬼五 いや。
吸血鬼二 <ある地区の劇場付の吸血鬼俳優集団が、百年間、ただの一人の観客をも芝居の虜にすることが出来なかった場合は、つまり仲間に引きずり込んで新しい血を導入することできなかった場合は、その前夜に、劇場で「百年祭」の演劇公演を催し、その公演を花道にこの世から燃えてなくなろう。>というのが、一九〇四年、ラプラタの吸血鬼国際会議で合意された勧告決議だ。
吸血鬼五 ・・・ということは、あれか? 百年間ノリのわるい芝居をやり続けてだな、だだの一人の生きた観客の魂をもわしづかみにすることが出来なかった吸血鬼演劇集団は、これ以上死に恥をさらさずにボッと燃えてなくなれ、ってことか。真っ昼間のお天道様の下にでも飛びだして。
吸血鬼二 そう。
吸血鬼五 それが吸血鬼俳優たるものの本懐ってわけ?
吸血鬼二 そう。
吸血鬼五 それで、おれ達のこの劇場はどうなるの? 
吸血鬼二 競売にかけられるのさ。目新しい吸血鬼芝居を上演したいという若手集団はいくらでもいるからね。こんな古い木造の舞台や坐りごこちのわるい客席はぶっ壊して、張り替えて、新しい劇場として出直すんだ。
吸血鬼五 ・・・そうか、今夜でお別れか・・・(劇場を見わたし)「さよなら、古い生活! こんにちは、新しい生活!」
吸血鬼二 ・・・。
吸血鬼五 しかし・・・だとしたら、おれ達にだって役者のプライドってものがあるだろう。「ごめんなさい、つい百年ものあいだロクでもない芝居をお観せし続けてしまいました。このへんでさらりとお別れを《線香の煙と共にハイさよなら》」って、ボッと青く燃えて、その場で消えたらいいじゃないか。花道の引退公演なんて恥の上塗りだと思うけど。
吸血鬼二 だからお前は百年たっても若造だっていうんだ! ラプラタ勧告が引退公演の日程を、百年目の「その前夜に」と、わざわざ一晩前倒しにして含みをもたせている意味が解らないのか?
吸血鬼五 ・・・?
吸血鬼二 つまり、正確にいうとおれ達は、この芝居が終わって今日の日付が変る夜中の十二時までは、まだ、ラプラタ勧告の「燃えてなくなろう。」の対象外なんだ。

     短い間

吸血鬼五 ・・・なんだい、なんだい。今夜のこの最終公演にまさかの望みをつないでいるわけじゃないだろうね・・・。
吸血鬼二 ・・・。
吸血鬼五 え? ほんとに? つまり・・・もう百年居直る権利を更新しようっていうの? だだの一人でもいいから、この客席のなかの生きた魂をわしづかみしようっていうわけ?
吸血鬼二 ・・・。
吸血鬼五 ちょっと! ソレはないよ! だって、「客席のなかの生きた魂をわしづかみ」っていうのは言葉の綾じゃない。実際に生きた人間を一人仲間に引きずり込んで新しい血を導入するってことは、おれ達のなかの一人が・・・この客席に飛び込んで、その辺に座っているピチピチした人間の首根っこにかぶりついてチュウチュウやらなきゃならないんだよ。そんなギラギラの現役の吸血鬼がおれ達のなかにいるわけないじゃない!
吸血鬼二 ・・・。
吸血鬼五 リアリティー、ぜんぜんないよ! だって現に俺たち、ただただ舞台の上で薄明かりを浴びて生きてる振りをしてるだけの完全なフィクションじゃないか!
吸血鬼二 だからさ。
吸血鬼五 ・・・。
吸血鬼二 だからだよ。(舞台前面に進み出て、身振りで、舞台と客席の境に透明膜を仮構しながら)いま、この小屋のなかで、一枚のうす皮をはさんで、虚と実の二つの世界が、鼻面をつき合わせている。こちら側には、「死んだ化け物の」「悪巧みと嘘っぱちの」「見栄とこけ脅かしの」「血わき肉おどる絵空事」が。むこう側には、「確かで」「嘘偽りのない」「死ぬほど退屈な」「奴隷根性まるだしの」人間どもの日々の暮らしが・・・。
百年前の生まれたてのおれ達は、夜毎、この膜を潜りぬけて、やつ等の縄張りへ土足で踏み込んでいった。そして、死ぬほどゴキゲンな快楽と悪徳の贅沢三昧をたっぷりやつ等に味あわせてやった・・・やつ等の生き血と引きかえにだ。そして、明けがた、まだ口の端にべとついた残り血を拭いながら、こちら側へ戻ってきたものだ。まがりなりにもそれが現実だった。ところが、いまやおれ達は、お前の言うとおり没落に没落をかさね、頭のてっぺんから爪先まで丸ごとただのフィクションだ。そこの椅子に座った人間どもに覗き込まれているだけの見世物だ。これが現実だ。だとしたら、この現実の見世物小屋で、今夜、一発逆転の場外ホームランを狙おうじゃないか。もしかしたら今夜の「さよなら吸血鬼公演」が、明日、「今晩は、帰ってきた吸血鬼公演」におお化けするかもしれないんだ。
吸血鬼五 だから、どうやって!
吸血鬼二 絵空事の底力をみせてやるんだ! ホラー、色仕掛け、お涙頂戴、不条理劇、なんでもいい、このさい、「全身全霊これただのフィクション」の立場を逆手にとってだな、一匹でもいい、生きのいい獲物がこの膜の向こう側からふらふらと飛び込んでくるように仕向けるんだ! 今夜、この芝居がはねたカーテン・コールのあとに、「吸血鬼って素敵! あと百年いっしょにお芝居をするのも悪くないカモ!」って、夢と現(うつつ)をとっ違えたカモが、その辺の(と、舞台下手前面と客席の境を指し)、客席と舞台の境を越えて、この舞台を横切って、おれ達の楽屋に押しかけてくるかもしれないじゃないか。そして、たどえば、お前の首根っこにかぶりついて、お前の血をチュウチュウ吸ってくれたら、しめたもんじゃないか!(と言いながら、背後から吸血鬼五の肩を抱き、首筋に唇を当てる)
吸血鬼五 まさか!
吸血鬼二 ・・・。
吸血鬼五 おれ達のダメ加減をそこまで逆手にとるとは! ・・・(自分の肩の上の吸血鬼二の頭を抱きながら)いくらなんでも破廉恥すぎないか?
吸血鬼二 破廉恥こそおれ達の最後のウリさ!


     暗転


  三 夢の中身


     女吸血鬼(女吸血鬼一) 吸血鬼(吸血鬼一)


     女吸血鬼、舞台中央に立っている。その傍らに、吸血鬼が腰を下ろしている。

女吸血鬼 夢をみたわ。
吸血鬼 ・・・悲しい夢か?
女吸血鬼 ええ。夢の途中で泣きながら目をさまして、そのまま明け方まで、涙がとまらなかった・・・。
吸血鬼 いいな、聞かせてくれ。しかしちょっと待て。「夢の途中で目をさました」のなら、われわれ吸血鬼としては「そのまま明け方まで」ではなく「日暮れまで」だろう。暗くなるまでまんじりともせず泣いていたわけだ、昼日中、柩桶の中で。
女吸血鬼 いいえ。そういう夢をみたのよ。
吸血鬼 ・・・?
女吸血鬼 なによ。まだ人間だったころのわたしが、淋しい夢をみて泣きながら目をさまして、そのまま明け方まで泣きつづけた、という夢をみたわって、そう言ってるだけじゃない。
吸血鬼 ・・・「わたしは、カッコ、わたしがまだ人間だったころ、夜中に淋しい夢を見て泣きながら目を覚ましてそのまま明け方まで泣きつづけた、カッコトジ、という夢をみたわ」ってか。なるほど。
女吸血鬼 夢を見て泣くなんて、なん年ぶりかしら。
吸血鬼 だからさ、夢を見て泣いたのは夢の中のお前だろ、まだ人間だったころの。その夢のなかの「なん年ぶりかしら」を、目をさました吸血鬼のお前が数えるのは筋違いじゃないか?
女吸血鬼 わからないひとね! 夢を見て泣いている人間だったころのわたしの夢をみた吸血鬼のこのわたしも、夢からさめてもらい泣きしたのよ! 話をややこしくしないでちょうだい。
吸血鬼 だって、ややこしくしてるのは・・・まあいい。
女吸血鬼 淋しい夢だった。しみじみ泣いちゃった。
吸血鬼 夢の中の夢のもらい泣きか。いいな、聞かせてくれ。
女吸血鬼 ・・・。
吸血鬼 それを聞いて、おれもひさしぶりにもらい泣きしてみたいんだ。こまかいニアンスもふくめて、洗いざらい話してくれ。
女吸血鬼 洗いざらいって?
吸血鬼 お前がしみじみ泣いた、その夢の中身さ。
女吸血鬼 ・・・。
吸血鬼 どうした、忘れたのか。
女吸血鬼 どうして? 生きていたころのわたしが悲しい夢を見て、目を覚まして明け方まで泣いた。それだけの話よ。中身があるわけないじゃない。
吸血鬼 あるわけない・・・中身が? じゃ、お前、なにを見てもらい泣きしたんだ!
女吸血鬼 なにが言いたいの。
吸血鬼 (じれて、両手をひろげ)いいか、ここにお前のみた夢がある。この夢の中にまだ人間だったころのお前が、こう(手で示し)いて、この夢の中のお前が、じつに淋しい夢をみたんだ! この夢があんまり淋しいから、この夢から覚めたお前が明け方まで泣いて、さらに、この夢から覚めたお前までもが日暮れまで泣いたんだ!
いいか! だとしたら、その、ここの、お前のみた「淋しい夢」の中身だけが、涙の源(みなもと)じゃないか! お前のみた夢の中で、この、ここだけが、たった一か所、まるで干からびた雑木林の枝の先にあけびの実が熟れてぱっくりと口を開けたみたいに・・・吹きっさらしのお前の夢の中で、ここだけがたった一か所・・・ドクドクと血のかよった柔らかな中身じゃないか! この中身から生き血を抜き取って、すっからかんにして、「それだけの話よ」ったって、その「それだけの話」のどこを絞ったら涙が出てくるんだ!

     短い間

女吸血鬼 自分をなんだと思ってるんだい。化け物のくせに!
吸血鬼 ・・・?
女吸血鬼 甘ったれるんじゃないよ。そんなに「血のかよった中身」が欲しいんなら、勝手に生け捕ってきたらいいだろう。娑婆から生娘さらってきて、ベッドに転がして、バタバタあばれる両足おさえつけて、あそこに顔をうずめて、泣きながらしゃぶりついたらいいじゃないか! 「ここだけが」って、「ここだけがたった一か所、まるで干からびた雑木林の枝の先にあけびの実が熟れてぱっくりと口を開けたみたいに」って!
吸血鬼 ・・・。
女吸血鬼 見損なわないでおくれ。「中身」から、甘ったれた泣き言をそぎ取った、吹きっさらしのすからかんの夢だったからこそ、しみじみ泣いてやろうって気になったんじゃないか。
吸血鬼 ・・・。
女吸血鬼 あんた、まだそんなヤワな人間の尻尾くっつけてるようじゃ、なん百年たってももらい泣きなんかできないよ。


     暗転


  四 夢の奥


     若い女吸血鬼(女吸血鬼二) 若い吸血鬼(吸血鬼四)

     同じ舞台。若い女吸血鬼、舞台中央に立っている。
     その傍ら、床に脚を投げ出して坐っている若い吸血鬼。
     若い吸血鬼は、まだ夢から醒めきっていない。

若い女吸血鬼 悲しい夢だったね。
若い吸血鬼 ・・・。
若い女吸血鬼 おぼえていないのかい? あんたもわたしの隣にいたじゃないか。 
若い吸血鬼 ・・・。
若い女吸血鬼 (若い吸血鬼を見て)さめざめと泣きながら抱き合ったじゃないか。あんたの身体のぬくもりを感じながら、あんたの胸に耳をあてて心臓の音を聞きながら、ああ、これはまだあたし達が生きていたころの夢なんだなって、そう思ったのを覚えているよ。
若い吸血鬼 ・・・。
若い女吸血鬼 あたしの涙であんたのパジャマの襟がびしょ濡れになってたよ。こんなに悲しい夢をみたのは何年ぶりだろう!
若い吸血鬼 ・・・
若い女吸血鬼 馬鹿だね、こんないい夢を夢のなかに置いてきちゃうなんて。

     間

若い吸血鬼 (夢からさめたように、ゆっくりと若い女吸血鬼を見上げ)そうじゃない。あんまりいい夢だったからこの場所に目をさましたくなかったんだ。目をさましたら終わりじゃないか。
若い女吸血鬼 ・・・。
若い吸血鬼 だから、泣きながらお前を抱いて、お前と一緒に夢の向こう側へ、向こう側の・・・もっと深い夢の奥へ、目をさましてみようと思ったのさ。

     短い間

若い吸血鬼 でも、だめだった・・・。その向こう側の夢のなかでも、おれはひざを抱えてお前の横に坐っていた。お前の身体から生きた心地がまるっきり伝わってこなかった。おれの心臓も動いていなかった。
若い女吸血鬼 ・・・。
若い吸血鬼 そして、その夢の中でもお前はおれに言ったんだ・・・
若い女吸血鬼 「悲しい夢だったね。」「おぼえていないのかい? あんたもわたしの隣にいたじゃないか。」
若い吸血鬼 せめて夢の向こう側の夢でくらい、人間でいたかったな。

     暗転


  五  歩き稽古

     演出家(吸血鬼三) 女優(女吸血鬼五) 老優(吸血鬼六)

     典型的なホラー音楽。下手の穴から首を出した演出家、おどろおどろしく手にした台本のト書を読む。
  
演出家 「夜明け前、じき太陽の昇りそうな気配。もう五月で、桜の花が咲いているが、外は朝寒で冷え冷えする。部屋の窓はみなしまっている。ドゥニャーシャ、ロパーヒン、登場。」
  
     舞台奥の壁にゆらめく怪しげな影、やがてその影の主の老優と女優が、上手より登場。

老優 「あゝ、おかげでやっと汽車が着いた。何時かね?」
女優 「じき二時になりますわ。もう明るうございますもの。」
演出家 駄目だ! 

     女優と老優、演技を中断する。

演出家 (穴から這い出し)歩き方が人間じゃない。
女優老優 ・・・。
演出家 (立ち上がり、二人が登場した上手袖まで行き)ここからそこまでの距離をやつ等がどのように歩くか、考えてみよう。
女優老優 ・・・。
演出家 人間は、皮膚という薄い皮袋にくるまれて外気に晒されながら歩行する。(ゆっくりと、歩行を模倣する)もしこの皮袋が破れ、流失した血液の量が限界を超えると、静かに呼吸を停止して、この場にくず折れ、(と、床に膝をつき)横たわり、やがて蛆虫に喰われて消滅する。むろん、そのような不慮の事故による死の可能性だけではない。(立ち上がり)ほっといたって、いずれかれ等は死ぬのだ。人間は、刻一刻、ひたひたと、死に向かってにじり寄りながら、生きている。ある人間が時速三キロの速度で三メートル歩いたとしよう。(三メートル歩く)いま、この男は、現実の距離としては三メートル歩いた。しかし、彼の残された時間を距離に換算すると・・・つまり、「死に向かってにじり寄りながら生きている」という比喩的表現をメートルに換算すると、彼は人生において三・六メートル墓穴に近づいた計算になるのだ。(女優に)解るか? 
女優 ・・・。(それほどピンとこない)
演出家 むろん、人間はそのことを意識せずに歩く。だが人間の身体はそのことを知っている。なぜなら、人間は一秒間に文字にして十文字ほどの情報しか意識に取り込むことができないが、人間の身体はその約二十七万倍の、文字にして二百七十万文字の情報を取り込む能力を持っているからだ。ドゥニャーシャとロパーヒンの意識が「やっと着いた汽車」と「何時か」についてのお喋りに現を抜かしながら歩いているこの瞬間にも、かれ等の身体は、刻一刻、自分が何に包囲され、何に蝕まれ、どこに向かって歩いているかの情報を冴え冴えと受け取り入れながら、この舞台へ登場するのだ。
さあ、人間の意識をではなく、人間の身体を模倣して歩いてくれ。

     短い間

老優 (演出家に)お前な・・・そんな屁理屈で煙に巻いて、役者が「へい、さいざんすか」って袖に引込んで、ツンツン踊りながら出てこれると思ってんのか? 
演出家 ・・・。
老優 馬鹿言ってんじゃないよ。ここで見ててやるから、並べた御託(ごたく)どおり、「何に包囲され」「何に蝕まれ」てここへ歩いてくるのか、手前の脚を使って見せてみろ!

     演出家、老優の言葉にしたがい、上手袖に引込んで、女優と老優の見守るなか登場するが、とうぜん様にならない。
     暗転
 

  六 せりふ稽古

     演出家二(吸血鬼一) 女優二(女吸血鬼五) 男優(吸血鬼六)

     前場と同じ。
     階段の踊り場に立った演出家二が、上手から登場するロパーヒンとドゥニャーシャを、見守っている。

男優 「あゝ、おかげでやっと汽車が着いた。何時かね?」
女優二 「じき二時になりますわ。もう明るうございますもの。」
演出家二 駄目だ! 

     女優二と男優、演技を中断する。

演出家二 台詞が死んでいる。
男優女優二 ・・・。
演出家二 (男優に)なぜロパーヒンは、「やっと」の列車の到着を、「あゝ」と喜び、「おかげて」と有難がったのか? そして、あらためて「何時かね?」と、ドゥニャーシャにたずねたのか?
男優 ・・・。
演出家二 生き急いでいるからだ。やがて自分がくたばって蛆虫に喰われることを薄っすらと受け入れながら、この日の朝目を覚まし、ここへ登場したからだ。いまのお前の台詞は生き急いでもいなければ、死に急いでもいない。「あゝ」も「おかげで」も「やっと」も「何時かね?」も、のっぺらぼーだ。ヒタヒタと死に迫られている男の微かな焦りの味付けがまるでできていない。死んでいる。
男優 ・・・。
演出家二 (女優二に)さて、ドゥニャーシャだ。彼女もロパーヒンとおなじ世界を生きている。つまり、ロパーヒンの「やっと着いた」の「やっと」とドゥニャーシャの「じき二時になりますわ」の「じきに」とは、おなじ波長の時間感覚のもとで、響きあわなければならない。解るか? 
女優二 ・・・。(それほどピンとこない)
演出家二 ただここで新たな問題が発生する。「ずれ」の問題だ。ドゥニャーシャとロパーヒンの年齢差に準じて、二人の行く手に待ちかまえている墓穴までの距離には隔たりがある。それは、二人が生きているこの時間と空間にわずかな「ひずみ」となって現れ、二人の感じるこの世の「はかなさ」「せつなさ」「心細さ」に、格差を産みだす。人間たちがそれぞれの孤独を噛みしめながら個別に生きている理由はここにある。ロパーヒンがドゥニャーシャに向けて発した言葉のいかほどかは、彼女に届かず、失速して彼女の手前に落ちる。彼女がロパーヒンに向けた共感の眼差しのいかほどかは、ロパーヒンを通りこして、背後の闇に消えてゆく。
女優二 ・・・。
演出家二 生きた人間の会話を模倣するとは、こういうことだ。共に震えながらいき急いでいる者どうしの、にもかかわらずかすかに発生する不協和音のバイブレーションを正確に再現しなくては生きた人間どうしの関係を再現することはできない。これが我われ吸血鬼俳優に課せられた究極のリアリズム演技なのだ。
女優二男優 ・・・。
演出二 (上手袖へ二人をうながし)やってみよう!

     女優二と男優、上手へ引込み、再登場。

男優二 「あゝ、おかげでやっと汽車が着いた。何時かね?」
女優二 「じき二時になりますわ。もう明るうございますもの。」

     当然の結果として、最初よりもはるかに不自然な台詞に、三人、唖然として顔を見合わせる。
     暗転
 

  七 往って来い

     団長(吸血鬼七) 全員

     「ただいまより人間界に軟着陸を決行する。」と言う声とともに、柩をレーシング・カーに見立て、
     その中から首を出した団長が、数人の吸血鬼の肩に担がれ、上手上方、階段の上から登場。
     団長は旧式の風防眼鏡を装着している。
     薄暗がりのなか、一連の行動は密やかに、粛々と。団長の声もほとんどささやき声である。
     上手からも、残りの吸血鬼たちが現れ、彼等の作業を見守る。

団長 けっこう難しいぞ! 大丈夫か? 足元に気を付けろ。おれを放り出すなよ! 右十三度にヨーソロ! (階段を降りきる)結構・・・もうちょい行ってみようか・・・ま、こんなとこか。(担ぎ手たち、止まる。団長、周囲をみわたし)え、こんなとこか! ま、いい。ホバリングを行う! 時間軸を定点に固定! スロットルを絞れ! よし、空間軸を固定! 錨をおろせ! ただいまよりテン・カウント・ダウン開始!(吸血鬼たち、柩をゆっくりと床に下ろし始める)テン! ナイン! エート・・・誰かわしのメガネ拭きを知らんか?(ポケットを探りながら)セブン・・・イレブンで週刊誌の立ち読みをしたときに落としたかな! シックス! ファイブ! ホー(手をかざしながら)軒下に鷲がとまってるぞ・・・なんで軒下なんかに・・・驚いた! こっちを見て目を丸くしてる。ワシを見た鷲も驚いたがその鷲を見たワシも驚いた。スリー! ツー!(吸血鬼たち、床に柩を下ろす寸前にバランスを崩し、柩を転覆させ、うつ伏せに床に落とす。柩の中から篭った悲鳴)ワーン!

     吸血鬼たち、柩をもとに戻し、柩の下から団長を引き出す。

団長 (弱々しく風防眼鏡を外し)頭をやられた。脳漿が洩れておる。おそらく助かるまい。「助かるまい」ということは、まさに人間界にタイム・スリップを仕掛けたやさきの事故だからな。「サヨナラ吸血鬼、今日ハ人間!」と思いきや、「サヨナラ人間(と、クタッとなる)、今日ハ吸血鬼!(と、シャンとする)」というただの往って来いだ。運が悪かった。今回の航海の公開されるべき航海日誌になんて書こうかい。「後悔さきに立たず」(虚空に文字を書き)って、こうかい? 「あっしのミスであっしが圧死」ってか。(下手の穴に歩み寄り)ここに埋めてくれ。(穴に入る)犬に喰われん程度の必要に深く、自力で這いだせる程度に充分浅くな。さすれば客席の皆さま方にお目にかけることができようというものだ。我々がこれほどまでにひねっ媚びて悪びれる以前の、牧歌的で素朴な、古きよき時代の吸血鬼劇を一つ二つ・・・。(墓穴に消える)

     舞台明りは、そのまま。


  八 戸口の外で

     夫(吸血鬼二)
     妻(女吸血鬼二)

     吸血鬼二(夫)、墓穴から出現。舞台中央手前で立ち止まる。
     舞台上の吸血鬼たちの中から、女吸血鬼二(妻)、先端に小さな窓を表す木枠を括りつけた棒を持ち、舞台中央に立つと、夫の気配を感じ、窓から夫を見る。
     他の吸血鬼たちは舞台上に座り、この場を見守る。

 ・・・。
 あんたじゃないか!
 ああ。
 ・・・。
 ただいま。
 ・・・。
 つい口から出ちまったが・・・いまさら「ただいま」はねえな。
 ・・・。

     間

 ・・・いつまでそこに立ってるつもりだい。
 ことわりなしに家(いえ)を捨てて女と一緒に十年も行方をくらましたんだ。ちっとばかり閾(しきい)も高くならあ。

     短い間

 馬鹿いってないで、お入り。
 いいのか? じつは、それだけじゃねえんだ。あの女とはじきに別れたんだが、とことん身を持ち崩して、三年前、化け物の淫売に血を吸われて俺も化け物になっちまった。
 ・・・。
 もう生身の人間じゃねえんだ。
 ・・・。
 それでも中へ入っていいか?
 ・・・。
 どうだい?

     間

 吸血鬼っていうのは、霧に姿をかえて、扉の隙間からでも高窓からでも入って来れるそうじゃないか。なんでそこに立ってわざわざあたしに「入っていいか?」なんて断わるんだい? 
 ・・・。
 あたしが「いいよ」って、納得づくで開けたドアから、「すまねえな」って、頭をさげてみせて筋をとおしたことにするつもりかい?
 ・・・。
 入れてやらないよ! あんたの、そんなセコい根性が、昔から大嫌いだったんだ。化け物のくせにわが身大切にカッコつけて筋だけとおしてみせるんじゃないよ! とっととお帰り!
     間

 ところで、ものは相談だが、あんた、身を持ち崩して化け物になったんなら、他に仲間もいるだろう。あんたより風采の上がらない男でいいから、真っ当な化け物を一匹よこしてくれないか。十年も後家を通して、面白いことなんぞ何ひとつなかったからね、力ずくで手篭めにされたあげくに、うっとりと血を吸われてみたいんだ。

     暗転


  九 「また来てしまった」

     夫二(吸血鬼三)
     妻二(女吸血鬼三)

     前場と同じ舞台。
     吸血鬼三(夫二)、墓穴から這いでて、舞台中央に近づき、窓を見あげ、声をひそめ、

夫二 おい! おい!

     舞台上の吸血鬼たちの中から、女吸血鬼三(妻二)が、前場の「窓」を手に、舞台中央に置いた椅子の上に立つ。

妻二 (窓から顔を出し)・・・。
夫二 ・・・また来てしまった。
妻二 駄目だよ。もういけないよ、お返り。「これで終いだから」って、あんたの約束を質に、許した昨日の夜ではなかったか。わたしだとて木や竹で出来た身体ではないから甘い顔も見せたいが、昨夜のような人の道に外れた行いに「もう一度」があってはいけないよ。お返り。納得づくでさっさと、お返り。
夫二 そうだな。(立ち去りかけるが)あれか、みんな変わりはないか?
妻二 昨日の今日でなにが変わるものか。みんな元気だよ、お返り。
夫二 そう「お帰り」「お帰り」ばかり言いつのると、「ただいま」って言うぞ。アハハ・・・。
妻二 ・・・。(笑わない)
夫二 「昨日の今日でなにが変わるものか」と言うが、お前の心はどうだ。すでに間男をひきずり込んでおるのではあるまいな。(背伸びして後すざり、室内を伺う)
妻二 お前こそ、これから帰って隣の墓の靴屋の女房でも口説くつもりだろう。
夫二 (機嫌を直しニヤリと笑い、ふと傍らを見て)このスモモの木は一昨々年の春におれが植えたものだ。
妻二 末永く大切にするから安心して、お返り。
夫二 ・・・。「ただいま。」アハハ
妻二 ・・・。
夫二 (しばしスモモの木を眺める振りをして時間を稼ぎ)今日、墓の中でちょっとした事を思いついたのだが・・・。
妻二 なんだい。
夫二 話したら聴くか?
妻二 聴くから話したら、お返り。
夫二 お前、ちよっとした居酒屋を開いてみる気はないか?
妻二 ・・・。
夫二 なに、別にうまい酒を出すとか、肴に出す煮物の味つけで、評判をとる必要はない。
妻二 ・・・。
夫二 ただ、その俺たちの居酒屋には、ちょっとした趣向があるんだ。
妻二 あたし達の?
夫二 ・・・だから、お前のさ。
妻二 ・・・。
夫二 ただ、そのちょっとした趣向に、おれも一枚噛むことになるわけだが・・・。
妻二 ・・・。
夫二 時間をきめといてだな、・・・毎晩その時間になると、おれがスッとやって来て、隅っこのテーブルに、フッと座る。
妻二 ・・・。
夫二 もちろん始めのうちは客も驚くし、気味も悪がるだろうが、おれの方になんの悪気もこだわりもないのが判ると、「話の種に覗いてみようか」などという客が、今夜は二組、明日は三組と、やがてぽつぽつつきだすのは請け合いだと思うんだ。
妻二 ・・・。


夫二 考えたんだが、もの珍しさを逆手にとって、なにか芸をして見せたり、愛想を振りまいたりしたら、いけないよ。ただ隅っこのテーブルにフッと座っているだけというのが肝心なんだ。静かで、控えめで、どこか淋しげだが見ようによっては人懐っこそうな、そんなほどほどの気配で、フッと座っているから、皆も気を許して話の種にもなると思うんだ。
妻二 ・・・。
夫二 近在に噂が広まりだすと、案外とめどがないぞ。ひょんなことで法王庁の近習の耳にでも入ってみろ、そのあげくにお忍びで法王が覗きにやって来たりした日にやぁもうお終いだ。店の建て増しはせにゃならんわ、席待ちの行列は県道まで連なるわ、おれのテーブルの周りには立ち入り禁止のロープを巡らせなきゃならぬわ、お前は四、六時ちゅう一張羅の着ずくめだが、銭勘定するのに追われて、そこら辺りへ物見遊山に繰り出すことも、これからさき生涯、ままならぬ。

     間

夫二 ・・・どうかな。
妻二 なにが。
夫二 そうなったら、お前、どんな気分だ。

     間

妻二 あんたの気分はどうなんだい。
夫二 生きてはいないおれに、気分なんぞ、もともとあるものか。
妻二 だったらお止しよ。

     間

夫二 くそアマ! 手前も儲かって、人さまも喜ぶ話が判らねえのか!
妻二 そんなことでしんそこ喜ぶ者は、一人もいないよ。たしかに物見高い連中がおしよせていっとき店が繁盛するかもしれないけどさ、その連中だって、死んだ人間がテーブルの前に坐ってるところをしげしげ見ているうちに、ふとわが身にかこつけて淋しくなって、そんなことをしている自分に嫌気がさすのが落ちだよ。わたしだってそんな儲けで嬉しくはならないよ。あんたの中に人並みの気分がまだ残っていて、是非ともって言うのなら、あんたの喜ぶ顔みたさに叶えてやらないでもないがね。
夫二 ・・・。
妻二 こうしてたって、あんたの身体から、なにかをしたら喜びそうな気配がひとかけらも伝わってこないじゃないか。あきらめて、お返り。

     夫、あきらめて帰りかけるが、再び窓のしたに戻り、

夫二 どう考えても悪い話とは思えねえんだ。とりあえず明日もういちど来てみるから、ひと晩じっくり思案してみてくれねえか?
妻二 この薄らトンカチ! 生きてるころから薄らトンカチはトンカチでも、淡白なのだけが取得だったが、往生したあとの往生際がここまで悪くなるとはね!
こうなったら歯に衣きせずに教えてやろう。お前が、そのわたしの店にひと晩でも座ってごらん。翌日には村の連中がよってたかってお前の墓を暴いて、お前の胸にぶっといトネリコの木の杭を打ち込むのがオチだよ! 一昨年の夏に川で溺れた肉屋の倅に吸血鬼の噂がたって、どんな目にあったか、お前だってその目ではっきり見たじゃないか!

     夫、極端におびえ、小走りに墓穴に戻りかけるが、ふと思いなおし、再び窓の下に歩みより、

夫二 なにもかもが夢みてえなんだ。真っ暗闇のなかに目をさまして墓穴から首を出すと、ひと筋にここまで道がついているんだよ。そうして、気がつくとお前のまえに立っていて、思いもつかねえ口説き文句が口からつるつる出てくるのさ。俺のせいじゃねえ、俺のなかに居坐っている化け物の仕業だ。助けてくれねえか!

     短い間

夫二 死んだ亭主が二度と女房のところへ戻ってこれねえ呪(まじな)いを教わったんだ・・・。
妻二 ・・・。
夫二 試してみるかい? 試すなら、お前の手助けが必要なのだが。
妻二 ・・・。
夫二 うまくいったら、二度とここに立つこともあるまい。
妻二 なにをするのさ。

     夫、前進して椅子に乗った妻二の脇をすりぬけ、舞台中央に立つ。つまり、あたかも壁をすり抜けたようにして、室内に入り、部屋の中央に立つ。

夫二 目隠しをした俺をその椅子に座らせて、左回りに七回廻すんだ。その後で俺の手を引いて墓穴まで引っぱってって埋めてくれたら、俺のなかの化け物が戻り道を忘れちまうのだそうだ。

     妻、椅子から降り、「窓」を床において、椅子を舞台中央に置く。夫、首に巻いていた小布で目隠しをして椅子に座る。

夫二 さあ、俺をグルグル廻してくれ。
妻二 (試みるが)重くて廻んないよ。
夫二 椅子を、こう、斜めにするんだ・・・

     と、腰を浮かせて協力するが、妻の力では上手くいかない。

夫二 だからさ、ちょっとお前、座ってみろ。

     夫、妻を椅子に座らせると、妻の背後にまわり、歯をむき出し、ゆっくりと妻の首筋に口を当てる。妻、静かに夫のなすがままに任せながら、

妻二 ・・・あんたにこんな甲斐性があったとはね。それともこれも暗闇のなかに目をさました、夢の・・・つづきなのかい・・・

     暗転


  十 「第二幕」

シャルロッタ(女吸血鬼五)
エピポードフ(吸血鬼四)
ドニャーシャ(女吸血鬼四)
ヤーシャ(吸血鬼五)
ラネーフスカヤ(女吸血鬼一)
ガーエフ(吸血鬼一)
ロパーヒン(吸血鬼三)
アーニャ(女吸血鬼二)
ワーニャ(女吸血鬼三)
トロフィーモフ(吸血鬼二)
フィルス(吸血鬼六)

     舞台は「桜の園」第二幕の設定である。シャルロッタ、ドウニャーシャ、ヤーシャが、坐っている。傍らにギターを弾いているエピポードフ。
     幕開き同様、またしても吸血鬼たちの演技からは「生きた気配」がそよとも伝わってこない。
     しかし、彼等のモノトーンの台詞は、序幕の舞台とは比較にならないほど濃密で、怪しくも確かな存在感にあふれている。

シャルロッタ ・・・正式のパスポートがない・・・だから、自分が幾つなのか知らない・・・市(いち)から市(いち)へ渡り歩いて・・・見世物に出ていた・・・サルト・モルターレ・・・ほかにもいろいろな芸を・・・。両親は・・・正式の婦だったかどうか・・・なんにも知らない・・・話し相手もいない・・・誰もいない・・・。
エピポードフ (ギターを弾きながら歌う)
憂き世を捨てしこの身には
友もかたきも何かせん
マンドリンを弾くのは、いいもんだなあ!
ドゥニャーシャ それはギターよ、マンドリンじゃないわ。
ヤーシャ 無学なやつめ。
エピポードフ ・・・運命は・・・遺憾なく、嵐の小船に対するがごとく・・・さもなくば・・・朝眼をさましたときに・・・なぜ・・・胸の上に恐ろしく大きな蜘蛛がのっているのか・・・クワスを飲もうとコップを取り上げると、油虫などという・・・無作法極まる奴が・・・かならず浮かんでいるのか・・・。(上手に退場)
ヤーシャ 二十二の不幸せ・・・馬鹿な奴だ。
ドゥニャーシャ ・・・気が落ち着かない・・・始終心配でならない・・・今では・・・手もこんな・・・まるで貴婦人みたいにまっ白・・・上品な女になってしまった・・・なにもかも恐ろしい・・・とても恐ろしい・・・。(上手に退場)
ヤーシャ 僕は・・・身持ちのわるい娘が何よりきらいなのさ・・・。

     ラネーフスカヤ、ガーエフ、ロパーヒン、登場。やや遅れて、フィルス、登場。

ラネーフスカヤ わたしは罪深い女だわ・・・年じゅう気違いみたいに、お金を撒きちらした上、ただ借金するほか能のないような男と結婚したんですもの。はシャンパンのために死んだのよ。わたしはまた別の人に恋をして、その人と一緒になってしまった。と、ちょうどその時・・・これがわたしの受けた最初の天罰だつたのだわ・・・あの川で坊やが溺れて死んでしまった・・・。
ガーエフ 世間じゃ、わたしが全財産を、氷砂糖でしゃぶりつくしたと言っている・・・。
フィルス 開放令がでた時には、わたしはも下男頭になっておりました。

     トロフィーモフ、アーニャ、ワーリャ、登場。

ロパーヒン さあ、もうどうでも決着をつけなければなりません・・・皆さん、この桜の園はあともう少しで競売にかけられます。お考えねがいますよ! ・・・よくお考えを!

     芝居の流れをやや逸脱したロパーヒンの呼び声に、皆が注視した所で、ストップ・モーション。短い間

ガーエフ (進み出て、客席に向かい)始めに、わたくし共は皆様にお願いいたしました。「皆さまとわたくし共のなかを別の時間が流れていることにしていただきたい」と。「そのことによって舞台上のわたくし共が死者であることからしばし眼をそらしてだきたい。死者が登場人物を演じるのではなく、登場人物に扮した俳優たちが死者を演じているつもりで舞台をお楽しみいただきたい」と。
身勝手なお願いにここまでお付き合いいただきましたことを、感謝いたします。
さて、(夜もだいぶ更けてまいりました。)皆様との永久(とわ)の別れが刻々と近づいております。「吸血鬼劇場百年祭」は、この場と、最後の全員で燃えてなくなる大団円をもちまして、打ち上げとなります。
そこで、あらためまして、最後のお願いをさせていただきたいのです。その願いとは、他でもありません、先ほどのお願いを撤回させていただきたいのです。つまり、わたくし共が死者であることから眼をそらさずに、逆に、正面からしげしげと、この死者の群れをご覧いただきたいのです。それだけではありません。わたくしがこれから申し上げる事実を、「なにを馬鹿な」とお咎めにならずに、出来ることなら「なんでもアリの芝居小屋での出来事だから、仕方がないか。」と、笑ってお認めいただきたいのです。
申し上げましょう、わたくし共は・・・いまみな様の前に立って「桜の園」の第二幕を演じているわたくし共は、俳優ではありません。わたくし共は、登場人物そのものであります。(短い間)もういちど申し上げます。わたくし共は、登場人物を演じている俳優ではなく、直に、直接に、『桜の園』の登場人物そのものであります。そして、ごらんのとおりわたくし共は・・・生きてはおりません。チエホフの芝居の登場人物で構成された、吸血鬼集団であります。
むろん、チエホフが一九〇三年に書き上げ、一九〇四年にモスクワ芸術座によって初演された当時のわたくし共は生きておりました、わたくし共の名誉のためにあえて申し上げますが、実に「生き生きと」・・・。
しかし、ある劇作家によって生み出され、ある時代を「生きた」登場人物たちが、その時代を、そして次の時代を、それどころか未来永劫、「生きのびる」とは・・・吸血鬼にもならずに「生きのびる」とは・・・いったいどういうことなのでしょうか? ロシア革命を生きのびた登場人物たち。スターリン時代を生きのびた登場人物たち。そしてソヴィエト崩壊後を今日まで生きのびた登場人物たち・・・。今夜、ただ今、この時間に、世界中のさまざまな劇場で、「さようなら、古い生活!」「こんにちは、新しい生活!」と、初々しく叫んでいるアーニャとトロフィーモフたち・・・おなじチエホフの戯曲『伯父ワーニャ』のアーストロフは、「もし千年ののち人間が仕合せになれるものとすれば」と呟きながら、自分の植えた白樺の苗木に望みを託す・・・そして、その隣の小屋では、『三人姉妹』のヴェルシーニンが、「人間は予感し、待ち望み、夢み、その準備をしなければなりません。」と百年後の世界にばら色の思いを馳せながらうっとりと演説をしている・・・。
とでもじゃないが、わたくし共は・・・トロフィーモフやアーストロフやヴェルシーニンであり続けながら生きのびることが出来なかった・・・舞台の上でかれ等の台詞を生き生きと喋るためには・・・わたくし共は・・・立ったまま死ぬことを選んだ・・・吸血鬼になることを選んで・・・今夜で百年目になった。
誤解しないでいただきたい、別にわたくし共は歴史にたいしてセンチメンタルな異議申立てをしているわけではありません。劇場の中だけでの約束事に、わたくし共なりの筋違いの筋をとおしてみたかっただけです。いや、それさえも綺麗ごとです。ざっくばらんに申し上げましょう。わたくし共は、ただ、吸血鬼になって、悪意をむきだしに・・・生きた観客の前に立ってみたかった・・・。百年の歳月をコケにして、ナイーヴなチエホフの台詞を裏返してみたかった・・・。
(笑う)そんな悪巧みに現を抜かすわたくし共が、皆さまの生きた魂をわしづかみに出来るはずがありません。
アーニャ 伯父さん!
ワーリャ 伯父さん、およしなさいってば!
ロパーヒン さあ、もうすぐ出かける時間ですよ! 桜の園はあともう少しで競売にかけられます!
ガーエフ 庭は一面に真白だ。あの長い並木道がどこまでもどこまでもまつすぐに続いて、月夜の晩にはきらきらと光ったものだ。覚えているだろう? 忘れやしないだろう?
ラネーフスカヤ ご覧なさい、亡くなったお母さまがお庭を歩いてらっしゃるわ・・・真白な着物で! ・・・もしわたしの胸や肩から重い石をのけることが出来たら! 
トロフィーモフ 死とはいったい何を意味するのでしょう? ひょっとしたら、人間には百ぐらい感覚があって、そのうち死と共に滅びるのは、かれ等の知っている五感だけで、あとの九十五は生きて残るのかも知れないですからね。
ラネーフスカヤ まあ、あなたはなんという賢い方でしょう。
トロフィーモフ 人類は一歩一歩自己の力を完成しつつ前進しているのです。人類にとって現在では理解し難いこともすべて、いつかは明瞭なものになるに相違ないのです。
ロパーヒン 神様、あなたはわたし達に、大きな森や、はてしもない野原や、遠い遠い水平線などを授けて下さいました、ですから、そこに住むとしますと、わたし達自身も、本来ならば、もっと大男でなければなるぬ筈でございます・・・
ガーエフ おお自然よ、驚くべき自然よ、無関心なる自然よ、われ等が母と呼ぶおん身は、生と死とを一身のうちに融合して、与え、且つ滅ぼす・・・
ワーリャ 伯父さん!
ガーエフ いや、もう黙るよ、黙るよ。
ラネーフスカヤ (正面、客席奥を見上げ)エピポードフが歩いている・・・。
ロパーヒン え?

     一同、ラネーフスカヤの視線を追い、客席奥を見上げる。
     突然、天からでもおちたように、絃の断たれたような、悲しげな、遠い音が響きが、舞台上手上方袖奥で鳴る。
     その音に吸血鬼たちが振り向くと、上手奥上方の階段の上に薄っすらと朝の光がもれている。

ガーエフ 日が昇ったよ、諸君。

     吸血鬼たちに動揺がはしる。何人かが上手袖に走りこむ。

ラネーフスカヤ さあまいりましょうよ、皆さん、もう時間ですわ。 
ガーエフ わしは、どうも手が震へてならんよ。
ロパーヒン 皆さん、もう一度申上げておきますが・・・桜の園が競売にかけられるんですよ。このことをよくお考え下さい! よくお考え下さい・・・

     一同、アーニャとトロフィーモフを残して、上手に退場。

アーニャ どうしてわたしは前のようにこの桜の園を愛せなくなったのかしら。この桜の園ほどいいところは、世界じゆうどこにもないと思っていたのに。
トロフィーモフ 世界じゆうがわれわれの庭です。この庭の桜の木から、その葉の一枚一枚から、その幹の一本一本から、人間の眼がぼく等を睨んでるとは思いませんか? その声が聞こえませんか? 恐ろしいことです、夜中にこの庭を歩くと、桜の木の古い樹皮が鈍く光って、樹々達が、百年も二百年も昔のことを夢に見ながら、まぼろしに苦しめられている気配を感じるのです。われわれが改めて現代を生きなおすためには、過去をあがなうためには、道は一つしかない・・・それは苦悩です。異常な不断の努力を以ってするほかはないのです。
アーニャ ここは、もうわたしたちの場所ではないのよ。だからわたし達、出て行くわ。
トロフィーモフ そして風のように自由になるんです。僕にはそれが見える・・・
アーニャ 日が昇ったわ。
トロフィーモフ そう、日が昇りました。だんだん近づいてくる。その足音がきこえる。僕達の眼に見えなくても、僕達に見分けがつかなくても、そんなことがなんでしょう? 後から来る者が見つけてくれるでしょう!

     二人、上手袖にかけ込む。


  十一 終幕

     登場人物全員

     上手袖奥の楽屋で、誰かがレコードをかけたのだろうか、アルゼンチン・タンゴ「アデイオス・コラソン」が小さく鳴る。
     ややあって、上手からヤーシャ、登場。舞台を横切り、ゆっくりと階段を昇り、しばしの逡巡の後、上手上方の袖奥に駆け込む。
     悲鳴と閃光と燃え爆ぜる音。
     その音を聞きつけて、上手袖から吸血鬼たち登場。階段の上方奥を見上げる。
     やがて、無言のうちにそれぞれの決意を確かめ合い、隊列を組んでゆっくりと階段を昇りはじめる。

ガーエフ (怯えながら、その隊列から外れ、床に膝をつき)愛する友よ、わが尊敬する友人諸君よ! いま永久にこの家を見棄てるにあたって、わたしとして果して一言なくしていられましょうか! いま自分の満身にあふれる感情を、告別にあたって披瀝せずしていられましょうか・・・

     アーニャとワーリャ、「伯父さま!」「およしなさい、伯父さま!」と、ガーエフを列に引き戻す。
     以下の登場人物たちの台詞は、行列の先に待ち受ける灼熱地獄を意識して、ほとんど会話の体を成さず、
     うわずり、かすれ声と絶叫のモノローグである。

トロフィーモフ 皆さん、もう出かける時間ですよ!
ロパーヒン エピホードフ、おれの外套!
ラネーフスカヤ もう一分間だけ・・・!
ガーエフ 万霊節の日に、父親が共同墓地の方から・・・!
ロパーヒン エピホードフ!(階段を昇りきり、戸外へ走り去る。絶叫と燃え爆ぜる音、閃光)
エピホードフ どうぞご心配なく、エルモーライ・アレクセーイッチ!
シャルロッタ 知らない! なんにも知らない! 誰もいない!(戸外へ走り去る。絶叫と燃え爆ぜる音、閃光)
ドニャーシャ 恐ろしくてしようがないのよ、とてもとても恐ろしくて!
ワーリャ まあ、なんですの、あなた、なんですの! まさかわたしそんなこと!(ドニャーシャと共に階段を昇りきり、戸外へ走り去る。絶叫と燃え爆ぜる音、閃光)
トロフィーモフ 馬車に乗りましょう! (戸外へ走り去る。絶叫と燃え爆ぜる音、閃光)
ガーエフ クロスで真ん中へ、白玉を空クッションで隅へ!
ラネーフスカヤ 行きまししょう!(ガーエフと共に階段を昇りきり、戸外へ走り去る。絶叫と燃え爆ぜる音、閃光)
アーニャ さよなら、お家! さよなら、古い生活!
トロフィーモフ こんにちは、新しい生活!(アーニャと共に戸外え走り去る。絶叫と燃え爆ぜる音、閃光)

     ややあって、下手奥の柩の蓋が開き、フィルスが上体を姿を現す。

フィルス 行っちまった・・・わしのことを忘れて・・・なあにかまうこたあない・・・一生が過ぎてしまった、まるで生きてなんかいなかったようだ・・・ちよつとの間横になろう・・・なんにも残つちやいない、なにも・・・ええい・・・この出来そこないめ! (再び柩の中に横たわり、蓋を閉じる)
 
     上手袖奥のレコードが鳴り止む。
     溶暗

     しばらくして、明るくなると、吸血鬼達全員が整然と客席に向かって並んでいる。カーテンコールである。
     そして、カーテンコールが終わり、吸血鬼たちは上手の袖に姿を消す。
     最後の吸血鬼が袖に入る寸前に、ふと気配を感じて舞台を振り向くと、
     なんと、一人の少女が、客席から舞台に足を踏み入れ、彼等の後を追い、上手奥の楽屋を訪れようとしているではないか!

     二〇〇七年六月八日
     〔チエホフ『桜の園』からの台詞の引用は、松下裕訳・中村白葉訳を参考にしました。〕

     〔冒頭の『桜の園』最終場の台詞〕

ガーエフ 「愛する友よ、わが尊敬する友人諸君よ! 今永久にこの家を見棄てるにあたって、わたしとして果して一言なくしていられましょうか! いま自分の全幅を満たしている感情を、告別のために披瀝せずしていられましょうか・・・」
アーニャ 「伯父さん!」
ワーニャ 「伯父さん、およしなさいってば!」
ガーエフ 「空クッションで黄玉を真ん中へか・・・だまるよ・・・。」

     上手手前から、トロフィーモフ、ロパーヒン、エピホードフとヤーシャ、登場。

トロフィーモフ 「どうしたんですか、皆さん、もう出かける時間ですよ!」
ロパーヒン 「エピホードフ、おれの外套!」
ラネーフスカヤ 「わたしもう一分間だけ坐ってるわ。わたしつたらまるで今まで一度も、この家の壁がどんなだったか、天井がどんなだったか見たことがないような気持ちなの。で、今になってわたしは、なんとも言いようのない優しい感じを抱いて、貪るように、それを眺めてみるのよ・・・」
ガーエフ 「忘れもしない、わしがまだ六つの時だつた、万霊節の日にこの窓の上に腰をかけて、父親が共同墓地の方から歩いて来る姿をみていたことがあったっけ・・・」
ロパーヒン 「いいか、エピホードフ、万事手ぬかりのないようにな。」
エピポードフ 「どうぞご心配なく、エルモーライ・アレクセーイッチ!」
ロパーヒン 「どうしたんだ、なんて声だ?」
エピポードフ 「いま水を飲んだひょうしに、なにかを飲みこんで。」
ヤーシャ 「無学なやつめ。」

     ワーニャ、包みからパラソルを引きぬく。ロパーヒン、おびえたふりをする。

ワーニャ 「まあ、なんですの、あなた、なんですの・・・。まさかわたしそんなこと考へてもいませんわ。」
トロフィーモフ 「みなさん、馬車に乗りましょう! もうすぐ汽車が来ますよ!」
ガーエフ 「クロスで真ん中へ、白玉を空クッションで隅へ・・・。」
ラネーフスカヤ 「行きましょう!」
アーニャ 「さよなら、お家! さよなら、古い生活!」
トロフィーモフ 「こんにちは、新しい生活!」

     トロフィーモフ、三、四、五、アーニャ、三、上手奥へ退場。ガーエフとラネーフスカヤ、抱きあって静かにむせび泣く。

ガーエフ 「妹、わたしの妹・・・。」
ラネーフスカヤ 「わたしのいとしい、なつかしい、すてきなお庭・・・。わたしの生活、わたしの青春、わたしの幸福、さようなら! さようなら!
見おさめにもう一度、壁を、窓を見とかなくては・・・。この部屋を、亡くなったおかあさまは歩きまわるのが好きだったわねえ・・・。」
ガーエフ 「妹、わたしの妹!」

     上手奥から「ママ!」「ヤッホー!」と呼ぶ声。

ラネーフスカヤ 「いま行きます!」

     ガーエフ、ラネーフスカヤ、上手奥へ退場。
     ややあって、下手の穴からフィルスが姿を現し、

フィルス 「行っちまった・・・わしのことを忘れて・・・なあにかまうこたあない・・・一生が過ぎてしまった、まるで生きてなんかいなかったようだ・・・ちょっとの間横になろう・・・なんにも残っちやいない、なんにも・・・ええい・・・この出来そこないめ!」(穴へ消える)



                         2007.8.6


 
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