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青少年のための接客入門
作 ソウケンモウ
 



概要

この物語は、とある酒場のひねくれたバーテンダーとその店に来たひねくれた客との屁理屈問答録である。
そのバーテンダーは、自分はつまらなくて暗くて個性のない人間だから、明るく楽しく個性があるようにお客様に接することができない、お客様をもてなすことができないと悩んでいた。明るく楽しく個性のあるように振る舞うことが、自分に対しても、お客様に対しても、ウソをついているように感じられてしょうがなかったからだ。そこに一人の客がやってきて、バーテンダーと屁理屈をこねくりまわして、接客とは何か、ウソとホントとは何か、互いにひたすら問答する。果たしてバーテンダーは、接客の悩みを克服することができたのか。ウソの自分とホントの自分の境界を埋めることができたのか。






登場人物

・バーテンダー(バーテンダーのセリフの行頭は「バ」と略している)
・客






数坪しかない小さなバー。バーテンは冴えない二十代半ばの若者。店内は時計の針の進む音しか聞こえない。そこに一人の客がやってくる。その客は常にニヤついた顔をしてねちっこい喋り方をするヘビのような男だった。

バ「いらっしゃいませ。」
客「へえ、こんな所にこんなお店があったのですね。」
バ「お飲み物は…。」
客「そうですね、ラム酒をロックで下さい。」
バ「かしこまりました。」

沈黙。時計の針の音が聞こえる。

客「このお店はどれくらい経つのですか。」
バ「まだ半年くらいです。」
客「失礼ですが、店長でいらっしゃいますか?」
バ「はい、一応…。」
客「かなりお若く見えますけど、マスター、ご年齢は?」
バ「今年二五になります。」
客「へえ、お若いのにすごいですね。ではこれからがんばらなきゃいけませんね。」
バ「まあ、そうですね…。」

沈黙。時計の針の音が聞こえる。

客「お店のフェイスブックやツイッターはやられてるんですか。やられてるのならフォローさせて頂きたいのですが。」
バ「そういうのは何もやってないんです。」
客「今時珍しいですね。お店の宣伝にもなるし便利ですよ。」
バ「特にこちらから発信することとかありませんから。」
客「そんなことはないでしょう。お店の情報とか、マスターご自身の日常とか。」
バ「本当に何もないんです。それに、お店を宣伝するつもりもないんです。」

沈黙。時計の針の音が聞こえる。

客「マスター、お休みの日は何をしているんですか?」
バ「特になにもしてないです。家でずっと寝てます。」
客「それじゃあつまらないでしょう。何か趣味はないのですか。」
バ「特にありません。寝るのが趣味ですかね。」
客「外に出てスポーツとかされないのですか。」
バ「スポーツとは無縁の人生です。僕はゲームにのめり込むことができないんです。所詮ゲームなんだと考えてしまうと、懸命になるのがバカらしく思えてしまって。」
客「それじゃあ読書とかはどうですか。小説とかお好きなように見えますけど。」
バ「全然好きじゃないです。所詮妄想ですし、必死に妄想を考えている作者の姿を想像してしまうと、なんかさめてしまうんです。」
客「それでは映画も?」
バ「小説ほどではないですけど、あまり…。」
客「音楽はどうですか。」
バ「流行りの曲とか聞いてると、歌詞の中身が恋愛に関するものばかりで、なんか辟易しちゃってあまり聞かないです。」
客「ハハ、それなら歌詞がないジャズとかクラシックを聞かれたらどうですか。」
バ「特に興味ないですね。」
客「音楽はいいものですよ。気分転換に最適です。そういえばこのお店、音楽を流していないのですね。何か適当にジャズでも流したらどうですか。雰囲気が出ていいと思いますけどね。」
バ「僕は、雰囲気はいらないんです。」

沈黙。時計の針の音が聞こえる。

客「クククッ。マスター、あなた相当なひねくれ者ですね。」
バ「そうでしょうか。」
客「ええ、間違いなくひねくれていると思いますよ。私も色々なお店を飲み歩いてきましたが、こんなお店ははじめてです。店の雰囲気は時計の針の音が聞こえるくらいの沈黙が漂っていて、マスター自身もつまらなくて暗くて個性がない。こういうお店はマスターがお客様を明るく楽しくもてなすのが仕事なのに、まるで話しかけてこないし、私が話しかけても、すくに会話を終わらせてしまうし、明るく楽しくしようという意識がまるで感じられない。」
バ「僕はつまらなくて暗くて個性のない人間だから、仕方がないんです。」
客「フフッ。まあ私もひねくれていますから、別に構わないのですけどね。マスターはどうしてこのお店を始めようと思ったのですか。」
バ「実験なんです。このお店は。」
客「実験?どんな実験ですか。」
バ「僕は、世の中から酒場をなくしたいんです。そして街自体をなくしたいんです。」
客「へえ。」
バ「お客さんが言われたとおり、酒場というのは、明るく楽しく個性のあるマスターが、明るく楽しい雰囲気でお客さんを楽しませる場所です。僕みたいに、つまらなくて暗くて個性のない人間とは正反対の空間です。でも、明るさ、楽しさ、個性というのは、後から作られたものであって、もともと人間は、僕みたいにつまらなくて暗くて個性のない存在だったはずなんです。つまり、明るさ、楽しさ、個性というのは、本当の姿じゃない。まやかしなんです。」
客「まやかしですか。」
バ「そうです。全部まやかしなんです。でも、どういうわけだか多くの人はつまらなくて暗くて個性のないことはよくないことだと考えるようになって、家を飛び出して、明るさ、楽しさ、個性を求めて街を彷徨うようになった。競うように、それらを探し出したり作り上げていった。新宿や渋谷、表参道原宿六本木銀座東京。どの街も華やかに彩られていて、明るく楽しい個性のある街でしょう。そしてそういう街に点在する酒場には、明るく楽しい個性のある人たちが集まって、明るく楽しい個性のある雰囲気を作り出していくんです。でも、彼らが必死に作り出しているものは結局…。」
客「まやかしですか。」
バ「だってそうでしょう。本当はみんな僕みたいにつまらなくて暗くて個性のない人間のはずなんです。それは家に帰ればわかるんです。家に帰って一人ぼっちになったら、どんなに明るく楽しく個性的に振る舞っていた人も、つまらなくて暗くて個性のない人間に戻るはずです。それが、本来の姿だから。」
客「家に帰ればねえ。」
バ「家というのは、街と違ってまやかしのない場所なんです。そこは時計の針の音しか聞こえないくらいの沈黙の空間です。その沈黙に浸って人間はつまらなくて暗くて個性のない元の自分に戻る。僕は思うんです。つまらなくてもいいじゃないか。暗くてもいいじゃないか。個性がなくてもいいじゃないかって。どうして自分をまやかして、明るく楽しく個性があるように振る舞わなきゃいけないのかって。僕は、つまらない人が好きです。暗い人が好きです。個性のない人が大好きです。そういう人たちと、つまらない会話をして過ごしたいんです。だから、僕は、このお店では、決して明るく楽しく個性のあるようには振る舞わないし、そういう雰囲気を造りたくない。決してお客様をまやかさない。そしてお店に来たお客様には、早く家に帰ってもらいたい。そういう実験です。」
客「ヘヘッ。単にひねくれているだけなんじゃないですかね。まあ別に、つまらなくて暗くて個性がなくてもいいとは思いますけど、明るく楽しく個性のあることを求めたっていいのではないですか。」
バ「明るく楽しく個性的というまやかしにとらわれてしまうと、人間は本来のつまらなくて暗くて個性のない自分に耐えられなくなって、さらなるまやかしを求めて街を彷徨い続けてしまうのです。僕はそういった街の犠牲者を数多く見てきました。だからこれ以上、増やしたくないんです。」
客「街の犠牲者ですか。少し大げさな気がしますけどね。ということは、毎晩街をさまよい飲み歩いている私も、街の犠牲者となるのですかね。」
バ「どうして、飲み歩くのですか。」
客「そりゃあ、お酒が飲みたいからですよ。」
バ「お酒が飲みたいなら、家で飲めばいい。なのに、なんでわざわざ、座席に座るだけでお金を払って、二、三杯飲めば酒屋でボトル一本買えてしまうお金を払ってまで、酒場でお酒を飲むんですか。」
客「ククッ。酒場のマスターとは思えない発言ですね。そうですね、一人で飲みたくないからじゃないですかね。誰かと飲みたいから、高いお金を払ってわざわざ飲みに来ているんじゃないですか。こんなこと、客に言わせないでくださいよ。」
バ「失礼は承知ですよ。でも、僕は至って真剣なんです。どうして、一人で飲みたくないのか。考えたことありますか。それは、明るく楽しく個性的というまやかしにとらわれてしまったからなんですよ。だから、ひとりびっちに耐えられないんです。人間なんて本当は、ひとりぼっちなんですよ。友達といようが恋人といようが、家族といようが、孤独感が襲ってくることがあるように、どうしても、一人であるという事実は隠せない。最後はひとりぼっちで死んでいくんです。僕も最近、一人暮らしをはじめて、実感してるんです。」
客「本当に考え方が暗いのですね。」
バ「明るく楽しく個性があるというまやかしを求めて、街に出ると、そこにはたくさんの彷徨う人がいる。彼らはみんな明るく楽しく個性があるように競うように振る舞っている。そういう人たちに紛れると、孤独感が薄まった気がする。所詮、それもまやかしの錯覚ななんです。でも、錯覚とは気付かずに、街をひたすら彷徨ってしまう。そして、家に帰りたくなくなる。家に帰っても、また出かけたくなってしまう。家にひとりぼっちで過ごすことに耐えられない。家の中で、ひとりぼっちで、つまらなくて暗くて個性のない自分と、時計の針の音しか聞こえない沈黙に、押しつぶされそうになってしまう。でも、本来はそれが本当の自分で、本当の空間なんですよ。だから私は、この酒場で、家の空間を再現させているのです。音楽を流して、素敵な雰囲気なんていうまやかしは作らないし、明るく楽しく個性のある振る舞いもしない。お客様には、早く家に帰っていただくんです。」
客「ずいぶん下らない、いや失礼、ご立派な実験をなされているのですね。でも、マスターのいうように、まやかしの街に出ないで家でずっと生活するのは無理じゃないですか。学校や買い物もそうですし、仕事の付き合いで酒場に行くことだってあるでしょう。人は必然的に街に出ないと生活できませんよ。」
バ「それはそうです。人間は街に出ないと生活できません。街のまやかしを避けて生活することは不可能なんです。」
客「それじゃあ、元も子もありませんね。」
バ「僕もそれは悩んだんです。結局、街に出ないといけない。街に出たら、明るく楽しく個性のあるまやかしを避けることはできない。まやかしに触れた後に家に帰ると、家の中の時計の針の音しか聞こえない沈黙とつまらなくて暗くて個性のない自分が如実になって、少しでも気分を紛らわせようと、テレビやラジオをつけたり、音楽を流したりして、それでも耐えられないと、酒を飲んで無理やり眠り込むしかなくなる。こんな生活をいつまでも繰り返さないといけないのかって。でも、ふと気付いたんです。人は、街と家を往復することで、まやかしの空間と沈黙の空間を行き来することで、何がまやかしで、何がまやかしでないのかを知ることができるんです。まやかしに気付くためには、まやかしではないものを知らないといけない。まやかしでないことに気付くためには、まやかしを知らないとダメなんです。だから、人は街に出る意味があったんです。まやかしに気付くために、街に出る必要があるんです。」
客「へえ、何だか面倒くさいですね。ところでマスターは、どうしてこんなどうでもいいようなこと、いや失礼、まやかしやら街やらについて考えるようになったのですか。」
バ「僕もかつては、街の犠牲者だったことがあるからです。」
客「へえ、そうなのですか。ちょっとおもしろそうですね。マスター、おかわりを下さい。ついでにマスターも一杯、飲んで下さいよ。」
バ「あれは僕がハタチの頃でした。せっかくお酒が飲める年になったんだからと、何気なく酒屋に入ったんです。その酒屋はこのお店と同じくらいの狭さで、バーテンは僕より六つ七つ年上のお姉さんで、お客さんも多種多様な人たちがいました。そしてみんな明るく楽しく個性的だった。僕はすっかりその酒場のまやかしに魅了されてしまいました。僕は毎晩、その酒場に通うようになって、朝まで飲み明かしていました。なぜか、僕のことをみんなとても可愛がってくれたんです。とても親切にしてくれて、とても優しかった。ときには酔っぱらい過ぎて騒いでしまっても、大きな目で見守ってくれました。でも僕はそれがとても不思議だった。なんで僕のことをこんなにも可愛がってくれるんだろうって。」
客「それはマスターの人柄が良かったんじゃやないですか。」
バ「そんなことはないです。人柄の良さで言えば、みんな本当に良い人たちでした。僕はどちらかというと、わがままで好き勝手やってた方なんです。だけど、可愛がってくれた。でも僕が二十一歳になったときに、僕の一個下の別のハタチの子が店にやってきました。途端に、みんな僕よりも若い、ハタチの方を可愛がるようになったんです。もうお前はハタチじゃない、もう大人なんだって。その時はっきりわかりました。みんなが僕を可愛がってくれる理由が。僕はハタチだから可愛がられていた。僕は若かったから、可愛がられていたのか。僕の取り柄は、若さだったんだって。」
客「まあ、それはあるでしょうね。」
バ「僕はもうその酒場には行かなくなりました。他の酒場を探したんです。僕の若さが通用する場所。僕を若いと可愛がってくれるお店を。毎晩、いろんな酒場を飲み歩きました。でも、心の中の不安が消えない。若さなんて、あっという間に消えてしまう。僕が年をとったら、一体誰が僕を可愛がってくれるのか、誰が僕に関心を抱いてくれるのかって。街のみんなはとても明るくて楽しくて個性があるけど、僕はつまらなくて暗くて個性がない。若さしかない。そう考えたら、不安でいたたまれなくなるんです。だから、僕も明るく楽しく個性のある人間になろうと思うようになりました。明るく楽しく個性のある人間になれれば、年をとっても、可愛がってくれる人がいるだろう、関心を抱いてくれる人がいるだろうって。でも、酒場で必死に、明るく楽しく個性のあるように振る舞っても、家に帰れば、時計の針の音しか聞こえない沈黙にひたれば、ふと我に帰ってしまうんです。つまらなくて暗くて個性のない本来の自分に戻ってしまうんです。自分を変えることなんて無理なんだ。つまらなくて暗くて個性がない自分を変えることなんてできやしない。自分はこのまま、誰にも関心を持たれることなく、一人で死んでいくんだって。」
客「マスター、大げさなんですよ。」
バ「僕はもうこの時、すでに街の犠牲者になっていたんですよ。街のまやかしにとらわれてしまっていたんです。明るく楽しく個性のある人や空間に浸りすぎて、人間がひとりぼっちであることを忘れてしまっていたんです。街に出る前までの自分なら、こんなことで悩むことなんてなかった。家の中でひとりで過ごすことが何も苦ではなかったのに、街のまやかしを知ってからは、ひとりぼっちに耐えられなくなってしまいました。明るく楽しい個性のある人たちとのつながりを必死に保ちたい、街の中に埋もれたくない。つまらなくて暗くて個性のないことは悪いことなんだ。そして毎晩、自分のことを若い若いと可愛がってくれる場所を求めて、街を彷徨い続ける。でももう疲れました。」
客「なんか可愛そうになってきましたよ。」
バ「なんでこんな必死になって明るく楽しく個性のあるように振る舞う必要があるのか、別につまらなくて暗くて個性がなくても、いいじゃないか。それが本当の自分なんじゃないかって思うようになっていたとき、深夜の街中で、ある知り合いを見かけたんです。その人は僕が通っていた酒場の常連でした。その人はその酒場の人気者で、とっても明るく楽しく個性のある人でした。その人がひとりぼっちで、とぼとぼと寂しげに深夜の街を歩いていたんです。その姿を見て、今まで自分が必死に追い求めていた明るく楽しく個性のある街や人や物事すべてが、まやかしに見えたんです。街はまやかしだった。事実じゃなかった。みんな本当は、僕のようにつまらなくて暗くて個性がないんだ。家に変えればみんな僕のように苦しんでいるんだ。みんな街の中で必死にもがいていたんだ。みんな僕と一緒だったんだ。みんな街の犠牲者だったんだ。」
客「ハハハ。」
バ「だから僕は、一切のまやかしを否定することにしました。街に出歩いてはいけない。酒場に行ってはいけない。家の中で、時計の針の音しか聞こえない沈黙と、つまらなくて暗くて個性のない自分と向き合って、ひとりぼっちで生活しよう。そして僕以外のみんなが、まやかしに気付くように、このお店を開いたんです。」
客「このお店を開いた背景にそんなたいそうな理由があったとは、意外でした。聞いてみるものですね。すべてはまやかし、みんな自分と同じ街の犠牲者ですか。でもマスター、みんながマスターのように、街はまやかしだからと、家の中にひきこもるようになったら、世の中はどうなりますかね。想像してみてください。みんながひとりぼっちを享受したら、人類はどうなるでしょう。少々大げさですが、人類は絶滅する方向に向いませんか。それは本当に正しいことなのでしょうか。ならばどうして人間は生まれてきたのでしょう。なぜ人間は生きているのか。マスター、どう思いますか。」
バ「そんなことは、わからないですよ…。」
客「そこはわからないで済ませていいのですかね。ひとりぼっちで、つまらなくて暗くて個性のない人生を過ごす。果たしてその人生に、どんな意味があるのでしょうかね。マスター、つまらなくて暗くて個性のない自分は、果たして本当の自分なんでしょうか。つまらなくて暗くて個性のない自分も、まやかしだとは考えられませんか。」
バ「そんなはずはないですよ。」
客「可能性はなくはないですよ。マスターが今まやかしだと思っていることはまやかしではないかもしれないし、まやかしではないとおもっていることは、まやかしかもしれない。マスター、ひとつ実験してみませんか。」
バ「実験?」
客「そうです。マスターも実験がお好きでしょう。ならばひとつ試してみましょうよ。マスター、私におかわり。マスターも一杯飲んでください。」

沈黙。時計の針の音が聞こえる

バ「それで、どうするんですか。」
客「自分自身を徹底的にまやかすのです。」
バ「どういうことですか。」
客「何がまやかしで、何がまやかしではないのかを調べるためには、今、自分がまやかしではないと思っているもの、つまり、つまらなくて暗くて個性のない自分というものを、とことんまやかしてみるのです。まやかしてもまやかしても、それでもまやかしきれないものこそ、まやかしではないものだと言えるでしょう。だから、とことん明るく楽しく個性的に振る舞ってみるのです。」
バ「それはハタチの頃に試したんです。明るく楽しく個性的になろうと努力したけど、ダメだった。」
客「もう少し続けてみるのです。マスターはハタチの頃、明るく楽しく個性的に振る舞ったことで、つまらなくて暗くて個性のない自分というものを垣間見たわけです。その時点で、それが本当の自分だと納得してしまっているのです。でも、もう少し続けてみたら、また別の自分を知ることができるかもしれませんよ。つまらなくて暗くて個性がないと思っていた自分も、まやかしだったという可能性も出てくるわけです。」
バ「もう僕は疲れたんです。そんなことは出来ませんよ。」
客「まあまあそう言わずに。まやかしていきましょうよ。私も手伝いますから。とりあえず、この沈黙をまやかしましょうか。てっとり早く、音楽でも流してみましょう。マスターは沈黙こそ本来の空間の在り方だと信じているようですが、それだって本当かはわかりません。ある宇宙飛行士は、ロケットで宇宙を飛んでいるときに、宇宙から音が聞こえたそうですよ。何かしらの音が流れているのが本来の空間のあり方だという可能性だってあるわけです。ひとまず、ジャズにしてみましょう。酒場にジャズは定番ですしね。」

ジャズの音が流れ出す。

客「次はどうしましょうかね。今と真逆のことをしていきましょうか。マスターは、ツイッターやフェイスブックをやってないのでしたよね。」
バ「発信することがありませんから。」
客「では、やってみましょう。発信することがないという自分をまやかすのです。何でもいいから発信してみましょう。『素敵なジャズとおいしいお酒を作ってお待ちしています。』でもいいのですよ。マスターが客を待ってなどいないことは知っていますよ。それもおかしな話ですけどね。待っていなくても、待っているように振る舞うのです。マスターの何も発信することがないという日常も、まやかしてみましょう。『今日は下北沢のレコードショップでマイルス・デイヴィスのレコードを買いました。今度お店で流します。』なんていいではありませんか。決して、『街というのはまやかしの空間で、街を彷徨う人々は街の犠牲者だ』なんて書いてはダメですよ。」
バ「なんかむちゃくちゃだ。」
客「フフッ。むちゃくちゃにまやかしましょう。次は趣味ですね。マスター、趣味はなんですか。」
バ「趣味はないです。」
客「休みの日は家で何をしてるのですか?」
バ「家で寝てます。」
客「殴られてもおかしくない答えですね。早急にまやかしましょう。スポーツはマスターには早いですね。家で出来る趣味にしましょう。映画や小説がいいかもしれませんね。映画は見ませんか。小説は読みませんか。」
バ「所詮、妄想ですから。」
客「ククク。マスターもブレないですね。たしかにそれらはまやかしかもしれません。でも、まやかしを知ることでまやかしではないものを知ることができるのですよね。それならば、思いっきりまやかしの世界に浸りましょう。たとえば、ヒーローが世界を救う映画を見ていると、あたかも自分がヒーローになって世界を救った気分になることがありますね。でも、映画館を出た瞬間、いつも通りの平凡な自分自身に気がつくってことがあるでしょう。波乱万丈な人生を送る少年が主人公の小説を呼んで、あたかも自分が波乱万丈な人生を送ったかのような気分になって、読み終わってからしばらく経てば、いつも通りの単調な日常に気がつく。そこで、そんな単調な生活を変えたいと思い立って、波乱万丈を求めて世界へ旅に出てみてもいい。世界中を旅している間に、本当に波乱万丈な出来事が起こった後に、あの平凡で単調な日常が幸せだったと気付くこともある。そんな感じでまやかしにどっぷり浸ってみるのです。」
バ「なんだか、想像するだけで嫌気がさしてきます。」
客「マスター、街の中にいる時は、街の中のまやかしにもどっぷり浸るのです。街にはいろんな人がいます。明るく楽しく個性のある人がたくさんいる。クールに振る舞っている人もいる。そういう人間のまやかしにも浸っていくのです。」

客、声色を変えて喋りだす。

客「マスターは、ジャズが好きなのかい。」
バ「ええ、まあ…。」
客「マイルスの作品は何が好きなんだい。」
バ「マイルス、ですか?」
客「マイルスはマイルスだろう。」
バ「すみません、マイルスを知らないもので。」
客「おいおいちょっと待ってくれよ。呆れたなこりゃあ。マイルス・デイヴィスを知らないのかい?それでよくもまあ、ジャズが好きだと言えたもんだ。」
バ「すみません…。」
客「マイルス知らないならビル・エヴァンスだって当然知らないんだろう?」
バ「はい、初耳です…。」
客「いいか、今から言うアルバムを聞いて出直してこい。マイルスなら『バース・オブ・ザ・クール』、ビル・エヴァンスなら『ワルツフォーデビイ』。わかったな。」
バ「はあ…。」
客「マスターは、映画は好きかい。」
バ「ええ、まあ…。」
客「そうかい、ゴダール作品ならどれが好きなんだい?」
バ「ゴ、ゴダールですか?」
客「ゴダールを知らない?それでよくもまあ映画が好きって言えたもんだ。黒澤映画は当然見てるんだろうな。」
バ「いえ…。」
客「話にならないな。一体どんな映画を見てるんだ。好きな映画を言ってみろ。」
バ「ええと、そうですね、あの、アンドロイドが主人公で、未来都市が舞台で、傘の枝が光っていて、ハリソン・フォードが美味しそうなうどんを食べてる…。」
客「『ブレードランナー』か。まあセンスは悪くないようだな。リドリー・スコット作品は他に見たのか。」
バ「いや、ちょっとわからないです。」
客「あきれたねえ。リドリースコット監督なら、エイリアンシリーズは定番だ。案外、『マッチスティック・メン』も面白い。とりあえず、『エイリアン』と『マッチスティック・メン』を見るんだな。」
バ「はあ…」

客、声色を元に戻す。

客「音楽や映画に全く興味がなくても、こういうお客さんが来たのなら、自分自身をまやかして合わせるのですよ。そして実際にすすめられた音楽や映画を見てみるのもいい。案外気に入って、ジャズファンになったりするかもしれない。今まで音楽や映画に興味のない自分がまやかしでない自分だと思っていたが、それがまやかしだったと気付くかもしれないですよ。」
バ「それは大変ですよ…。」
客「こんな無茶振りをしてくるお客さんだっているかもしれないですよ。」

客、声色を変えて喋りだす。

客「マスター、なんか最近面白いことなかったのかい。」
バ「面白いことですか?」
客「そうだよ、なんかないのかい。」
バ「特にはないです…。」
客「そんなはずないだろう。なんか話せよ。」
バ「そんなこと言われても…。」
客「話せよ!バーテンだろ!」
バ「で、で、電柱…。」
客「電柱?電柱がなんだ。」
バ「で、で、電柱によく、猫を探してますっていう張り紙が貼ってあるじゃないですか。」
客「それがどうした。」
バ「この前近所を歩いていたら、電柱に、鳥を探してるっていう張り紙が貼ってあって。どうやらペットのインコが逃げちゃったみたいで、それを探してくれって書いてあったんです。そんなの絶対無理じゃないですか。写真を見る限り、何の特徴もないただのインコですよ。それをこんな街の中で見つけるなんて、不可能ですよ。猫でさえ難しいのに。なんかそういう無理があることを見ると、すごく白けちゃうんです。街中で時々、奇妙なことをしている人がいるでしょう。この前なんか、犬の形をした風船に首輪をつけて散歩させてる人がいたんです。どういうことだかさっぱりわからないけど、すごく白けました。あと、路上パフォーマンスでワケのわからないことをしている人とか、それをわざわざ立ち止まって見ている人とかを見ると、すごく白けるんです。でも、一番白けたのは、ショーウインドウにうつりこんだ自分を見たときでした…。」

客、声色を元に戻して喋り出す。

客「マスター、それは何の話なのですか。面白い話をしろと言ったのですよ。」
バ「だから言ったでしょう。僕はつまらなくて暗くて個性のない人間なんです。それがまやかしではない本来の自分なんです。仕方ないでしょう。」
客「いやはや、まさかここまでつまらないとは。でもマスター、今の話って最近のことですか。」
バ「ええ、まあ。」
客「マスター、街に出ているじゃないですか。」
バ「ああ、そうですね。」
客「あれほど街に出るな、家にいろと言っていたのに。」
バ「頭ではわかっているんです。でも、どうしても出たくなってしまう時があるんです。」
客「マスター。それでいいのですよ。ずっと家の中にいるなんて難しいものです。」
バ「一度でも街のまやかしにとらわれると、なかなか抜け出すことができない。僕はまだ、まやかしにとらわれているんですよ。やっぱり僕は、これ以上僕のような街の犠牲者を生み出したくない。まやかしに抵抗していきます。お客様をまやかすなんてことはできません。」
客「お客様は明るく楽しく個性があるというまやかしを求めているのです。まやかしを求めている人をまやかして何が悪いのでしょうか。それに、マスターは一度街に出て、まやかしに触れたことで、まやかしでないものに意識を向けるようになった。ならば、お客様だって同じですよ。お客様を精一杯まやかすのです。たくさんのまやかしに触れた後に、家に帰ることで、お客様もマスターのように、まやかしでないものを考えるようになるかもしれないですよ。できるだけ多くのまやかしに触れた後で家に帰った方が、時計の針の音しか聞こえない沈黙と、つまらなくて暗くて個性のない自分をより感じられるはずです。まやかした方が、お客様のためになるのです。」
バ「よくもそういろいろと屁理屈が思いつきますね。」
客「すいません、私もひねくれ者でしてね。」
バ「僕もひねくれ者なので、そんな屁理屈では納得できないです。」
客「お客様をまやかせませんか。どうしても、明るく楽しく個性があるように振る舞えませんか。」
バ「はい。」
客「それなら別の屁理屈でも考えてみましょうか。」
バ「どうしても僕を明るく楽しく個性があるように振る舞わせたいのですね。」
客「はは。私は相当なひねくれ者ですから。マスターは、自分がどうして生まれたかを考えたことがありますか。」
バ「どうして生まれた?」
客「そうです。どうやって自分が生まれたのか。考えてみてください。マスターが生まれたのは、マスターのご両親のおかげですよ。そのご両親は、どうして結ばれたか。間違いなく、ご両親は、街で出会っています。人と人とが出会うのは、街という空間以外ありえない。マスターの否定する、街というまやかしの空間以外にありえないのです。そのまやかしの空間で出会った人と人との関係も、マスターはまやかしというのでしょう。たしかに、そうかもしれませんね。マスターのお父様は、街のどこかで、マスターのお母様に出会って恋に落ちた。お母様に近づくため、好かれたいために、自分をまやかしたかもしれない。明るく楽しく個性のあるように振る舞ったかもしれない。お母様の好みのタイプに見えるようにまやかしたかもしれない。そんなお父様の姿を見て、まやかされたお母様も、お父様の好きなタイプに見えるように、自分をまやかしかもしれない。そうして二人は結ばれていったかもしれない。そうして結ばれた二人の関係だって、マスターから言わせれば、まやかしなのかもしれない。では、そんなまやかしの関係から生まれたマスターご自身は、まやかしではないですか。」
バ「…。」
客「あなた自体がもうすでに、まやかしだったと考えられませんか。」
バ「わかりませんよ。」
客「恐らく他の男女だって、こんな感じでしょう。みんな多少は相手をまやかしている。まやかしの関係で結ばれて、子供を産んでいる。そう考えれば、人類はみんなそもそも、まやかしの産物ですよ。この世は全部まやかし。そもそも、まやかししかなかった。」
バ「じゃあ、まやかしではないものなんて、そもそも存在しないってことですか。」
客「残念ながら、そうですね。マスターが、まやかしではないと信じていた、つまらなくて暗くて個性のないという自分も、まやかしだったのですよ。明るく楽しく個性があることもまやかしだけど、つまらなくて暗くて個性がないのもまやかしなのです。本当の自分なんてはじめから存在しなかったのです。」
バ「本当がない、ですか。そしたら、なんでもありじゃないですか。」
客「そうです。なんでもありなんですよ。どうせ、全部まやかしなんですから。本当なんてないのです。だから、これが本当だから、これはまやかしだ、なんて思う必要はない。マスターはまやかしでないものを求め過ぎているのです。そんなものはいくら求めても得ることはできないのです。」
バ「なんかそれはすごくむなしいですね。」
客「それは、まやかしではないものがあると思い込んでるからですよ。まやかしではないものなんてないことを知れば、むなしいなんて気持ちもなくなるはずです。マスターは、この世にはまやかしではないものが存在するはずだというまやかしにとらわれていたのですよ。そして、暗くてつまらなくて個性のない自分が、まやかしではないものなんだというまやかしにとらわれて、苦しんでいただけなのです。そんな自分は存在しない。本当の自分なんてなかったのですよ。」
バ「そうなんですかね。」
客「そうですよ。だから、明るく楽しく個性があるように振る舞うことに、罪悪感を抱く必要なんてないのです。好きなだけ自由にお客様に振る舞えば良いのですよ。心の中では中指立てていても、こいつバカだなあと思っていたとしても、表面上は適当に取り繕って適当な笑顔で軽くあしらう感じで接すればいい。そしてそれがお客様をまやかしているなんて思う必要もない。まやかししかないのだから。心の中で思っていることが本当なんかじゃない。本音なんてない。それは単なる、本音っぽいまやかしです。だから心の中でどんなことを思っていても構わないのですよ。」
バ「はは、なんかいいかもしれませんね。本当の自分なんて存在しない。素の自分なんて存在しない。良いも悪いもない。正解も不正解もない。だって全部まやかしなんだから。」
客「楽しいもない。寂しいもない。悲しいもない。嬉しいもない。それはそういうまやかし。ひとりぼっちでもない。ひとりぼっちだと感じたとしても、それはそういうまやかし。ひとりぼっちが本当なんてことはない。」
バ「そうか僕は、本当があると思いこんでいたんだ。まやかしではないものがあると信じていた。それがむしろ良くなかったのか。でもなんで僕は、まやかしじゃないものがあるなんて思い込んでいたんでしょうか。まやかしではない、本当があるって、信じていたんでしょう。」
客「マスターは、大仏を見たことがありますか。」
バ「大仏?大仏ってあの大仏ですか?」
客「そうです。見たことありますか?」
バ「ないですね。」
客「大仏ってなんだと思いますか。」
バ「なんだって言われても、仏様ですよね。」
客「そうですね。では仏様ってなんですか。」
バ「なんかとても立派な存在なんじゃないですか。」
客「私は何回か大仏を見たことがあるのですけど、はじめて大仏を見た時の感想は、単なるでっかい金属の塊、でした。」
バ「ひねくれていますね。そんなこと言ったらバチが当たりますよ。」
客「すいません。でも正直なところ、本当にそう思ったのです。でも、まわりにいる人たちはみんな、その大きな金属の塊に向かって、頭を下げて、祈りを捧げているのです。私には理解できませんでした。最初のうちは。でも、その後に、お寺のお坊さんの説法を聞いたり、お経を唱える場面を見たりする機会があったのです。そのお坊さんたちの話や振る舞い方がとても清楚で品があり、立派だった。その後に、大仏をもう一度見た時、その大仏がとても神々しく見えたわけです。」
バ「ずいぶん単純ですね。」
客「ええ、単純なもんです。ちょうど夕暮れ時で、太陽が沈みかけていた時間に見たあの時の大仏は、単なる大きな金属の塊とはとても見えませんでした。」
バ「それがどうかしたんですか。」
客「ええ、でもマスター、あの大仏は、まやかしかもしれません。」
バ「それはちょっと、まやかしと言い切ることは僕には出来ません。」
客「わかりますよ。でも、この世は全てまやかしで、本当なんて存在しないという屁理屈に従えば、あの大仏だってまやかしになるのです。人間がそもそもまやかしの産物なら、人間が作ったあの大仏だって、まやかしの産物です。あのお寺の荘厳な空間だって、ひとつのまやかし。お寺は、ひとつの街なのですよ。そのまやかしで、多くの人の心を癒やしているわけです。」
バ「でもそれは、やはり恐ろしいことですよ。宗教や文化はすべてフィクションだということですか。」
客「そうですよ。でもそれは、宗教や文化を否定していることにはなりません。私だってそれを否定する気も一切ないのです。まやかしは悪いものだというイメージがあるから、宗教や文化がフィクションだと言うことが、あたかもそれらを否定しているように感じるだけなのです。まやかしは悪いことではない。だってそもそも、まやかししかないのですから。そうでしょう。」
バ「まあ、そうですけど…。」
客「あの大仏は、最初は単なる金属の塊でした。だけど、その後に立派なお坊さんから、立派なお話を聞いた。そのお坊さんの振る舞い方も、ひとつのまやかしです。本当は心の中で、面倒くさいなあと思いながら、立派な振る舞いをしていたかもしれません。でも、それでも構わないのです。どうせまやかしなのですから。そして私はすっかり、そのまやかしにとらわれてしまったわけです。そうやってあの大仏は、千年以上もの間、人々をまやかしてきた。多くのお坊さんたちが、大仏のまやかしをまやかしであり続けさせるために、立派な人間であるように振る舞ってきたのです。立派であるというまやかしを一生続けてきたのです。そして、多くの人々の心をまやかして、救ってきた。」
バ「その救いも、まやかしですか。救われたと感じた心もひとつのまやかし。」
客「はは、マスターもバチ当たりですね。でも、私の屁理屈ならそうなりますこの世はまやかししかないのですよ。まやかししかないのであれば、その救いもまやかし。違いますか。」
バ「それで、何が言いたいんですか。」
客「マスターは単なる金属の塊を、仏様と言いましたね。多くの人が大仏という金属の塊を、立派な存在である仏様だと信じている。なぜでしょうか。それは、長い間あの金属の塊を仏様だとまやかし続けてきたからです。まやかしをまやかしであり続けさせれば、それは事実のようになるのですよ。まやかしの世界でも、千年もの間、同じまやかしを維持させれば、それはまやかしではないように見えてくる。事実になってくる。大仏の世界が、フィクションではないように思えてくる。」
バ「まやかし続ければまやかしではなくなるってことですか。」
客「そうです。まやかしの世界でも、まやかし続ければ、本当のようになるのです。千年もの間、まやかしであり続けたからこそ、大仏の世界は真実のようになり、真実のようになったからこそ、多くの人の心を救えてきた。」
バ「この世の中で、本当だと思えるものがあると思うのは、それが長い間、同じまやかしであり続けたからだということですか。」
客「そういうことです。」
バ「でも、大仏が多くの人々の心を救ってこれた、いや、救ったというまやかしを与えることができたのは、大仏の世界が真実のように見えるからなんですよね。ということは、人間はやっぱり、真実を求めているということじゃないですか。」
客「まあそういう部分もあるかもしれませんね。」
バ「この世はすべてまやかし。まやかしではないものなんて存在しない。でも、まやかしではないものがあると信じたい。真実でなければ、心は救われないのかもしれません。」
客「それなら、自分が本当だと思いたいこと、まやかしではないと思いたいことを、続ければいいのですよ。大仏のように。マスターにとって、まやかしではないと思いたいこと、本当だと思いたいことは、なんですか。」
バ「そうですね…。」
客「どうせ、すべてはまやかしなんですから。気楽に自由に考えてくださいよ。まやかし続けられれば、どんなことだって本当のようになる。まやかし続けられれば、どんな自分にだってなれるのです。本当は、明るい人間になりたいのではないですか。本当は、楽しい人間になりたいのではないのですか。本当は、個性のある人間に、なりたいのではないですか。」
バ「そうですね。本当は、明るく楽しく個性のある人になりたいのかもしれません。そう思っている自分もいると思います。でも…。」
客「でも?」
バ「やっぱり自分は、つまらなくて暗くて個性のない人間だと思うのです。それはまやかしかもしれないけど、まやかしでないと信じたいんです。あの、街から帰ってきた時の、時計の針と音しか聞こえない沈黙と、つまらなくて暗くて個性のない自分。本当はひとりぼっちなんだと感じた自分。それが本当の自分なんだって感じた気持ちは、まやかしじゃなかったって信じたい。」
客「マスターも頑固ですね。なぜそんな自分にこだわるのです?」
バ「世の中には、僕のように、つまらなくて暗くて個性のない自分が本当の自分だというまやかしにとらわれている人がたくさんいると思うんです。明るく楽しく個性のあることが良いことで、つまらなくて暗くて個性のないことが悪いことだというまやかしにとらわれている人もたくさんいると思うんです。本当は人間はひとりぼっちなんだというまやかしにとらわれている人だってたくさんいるはずです。僕は、そういう人たちに、救われたと思ってもらえるようにまやかしたい。別につまらなくて暗くて個性がなくたっていいじゃないか、と思ってもらえるようにまやかしたいです。」
客「マスター、やはりあなたは相当な変わり者、ひねくれ者ですよ。普通は、明るく楽しく個性のある人間になりたいと思うものでしょう。つまらなくて暗くて個性のない自分でいたいなんてこと言う人は、マスターだけですよ。」
バ「はは、そうかもしれませんね。でも、どうせすべてまやかしなんですから、僕の好きなようにさせてください。正解も不正解もない。良いも悪いもない。所詮、本当なんてないんですから。まやかしではないものなんて、ないんですから。ただ、ひとつのまやかしを、まやかしであり続けさせるだけなんですから。」
客「それで、どうするのですか。」
バ「そうですね。とりあえず、このお店を続けますよ。」
客「ほう。」
バ「音楽なんかも流してみますかね。」

ジャズが流れ出す。

客「これは驚きですね。」
バ「ええ、時計の針の音しか聞こえない沈黙が本当の空間だなんて思いません。店に明るく楽しく個性があるお客様がやってきても、まやかしだとは思いません。どうせ、全部まやかしなんですから。そして、わざわざ家に帰そうなんてこともしません。家が本当の空間なんてこともないわけですから。だから、僕もわざわざつまらなくて暗くて個性のない自分であろうと振る舞うこともしないです。そのお客様の求めているであろうまやかしを自分なりに考えて、適当に振る舞ってみますよ。」
客「いやいや、これはさらに驚きですね。」
バ「ええ、自分でも驚いてます。でも、そうすることができるような気がするんです。つまらなくて暗くて個性がない自分は本当の自分ではなかったと思えば、明るく楽しく個性のあるように振る舞うのも、なんだか出来る気がするんですよ。」
客「へえ、それで、どうやってつまらなくて暗くて個性のない人たちを救うというのですか。それだとただ普通の酒場になっただけではないですか。どうやって、まやかすのですか。」
バ「そうですね。難しく考えてもしょうがないです。お客さん、このお店の名前、知ってますか。」
客「ああ、そういえば、知りませんでした。なんていう名前なのですか。」
バ「『家』です。」
客「はは、そのまんまですね。」
バ「ええ、そのまんまです。でも、今日から名前を変えようと思うんです。」
客「なんですか。」
バ「『帰りたくない』。」
客「帰りたくない?」
バ「ええ、『帰りたくない』です。」
客「これまた、そのまんまですね。」
バ「単純ですよ。店の中では、それなりに明るく楽しく個性のあるように振る舞っているけど、心の中では、家に帰りたくないなあと思っている。このマスターも、家に帰ったら、つまらなくて暗くて個性のない人間になるんだな、時計の針の音しか聞こえない沈黙に苦しんでいるんだな、ひとりぼっちの寂しさを感じているんだな、自分と同じなんだな…。そうお客様に思ってもらえればいいと思うんです。」
客「『帰りたくない』ですか。悪くないと思いますよ。」

すると突然、流していたジャズのレコードが終わってしまう。

バ「あ、終わっちゃった。」

再び沈黙。時計の針の音が聞こえる。

バーテンダーと客、同じタイミングでつぶやく。

「はあ、帰りたくない。」



    
 
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