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G・G

作 別役慎司
 

 

 登場人物

・サラ
・ケイティ
・ティー
・マシュ

 

 

 

 

 

 

 

   なにもない舞台。床と同じ黒色のイスが数脚。

   音楽。
   四人の女性が舞台の四方にいる。向き合った形で、イスに座っている。    

サラ 一日目日記帳を渡された。新しい場所、新しい部屋、書きたいことがたくさんあったのになぜかもう思い出せない。二日目わたしは頭痛と吐き気で一日寝ていた。外の空気が吸いたかったけれど我慢するしかなかった。わたしはあの人と再会することができるのだろうか? それを待つにはあまりにも無機質な場所だ。三日目ここに来てからわたしは一度も笑っていないような気がした。任せて大丈夫なのだろうか? ここにはぬくもりも生活感もない。まるで目の覚めない夢のなかにいるようだ。四日目わたしは散歩に行った。真っ白な壁に太陽が反射してとてもまぶしかった。芝生はただだだっ広くて、人もベンチも、ゴミすらもそこにはなく、歩いていて不思議な感じしかしなかったのは初めての経験だった。いや、そもそも初めてかどうかも今のわたしにはわからないのだ。でもこんな経験はきっと初めてに違いない。五日目わたしは昔の写真を探してた。場所はわからない。もうないことは気づいている。だから胸の中をずっと探してた。ロンドンの写真もパリの写真も、ウィーンの写真もみんなあるはずだから。一瞬探し当てたと思っても、どれも完全な形では残ってなかった。六日目わたしは空に吸い込まれそうになった。でも目の前の格子が邪魔をした。鳥たちがわたしに会いたがっているのがよくわかった。わたしのぬくもりに触れたいのだ。わたしはまだこの空気に慣れない。七日目わたしはスープを1人で飲むのにいたたまれなくなって、スープを残した。半分より少し飲んでしまって、ひどく後悔した。でもあとになって、なんで残したんだろうと疑問が沸いてきた。だって、あれはわたしのためのスープなのに。どうしてか、わたしはスープを一皿飲みきることができない。(しばらく沈黙し、そのまま退場する)

ケイティ 一日目わたしのことを少し教えてあげる。わたしは昔モデルをやってたの。そりゃあ、一流とはいえないけれど、でもたくさん雑誌にも載ったし、あの頃は特にモテたわ。彼氏は三人までしか作らなかった。同時にって意味よ。それには理由があるの。でもそれは教えてあげない。二日目日記って意味がないわ。自分で書いて自分で読むんでしょ? 交換日記をしたいなら、あなたも書かなきゃ。わたしだけが書くなんて不公平よ。そうじゃない? 三日目筆記用具ってなんのためにあるの? 書くのはあんまり好きじゃない。四日目日付ってなんで規則正しく並んでるの? 別に23日の次が58日でもいいのに。大体月ってなに、月って? 誰か教えて! それとなんでここにカレンダーがないのか教えて。五日目涙の研究をしていた学者が面白いことを発見したんだって。涙の成分は人によって、12種類に分けられるそう。涙で占いができるわね。誰かに教えたくてしょうがない! 六日目もういい加減退屈。七日目以下同文。(しばらく沈黙し、そのまま退場する)

ティー 一日目いささか殺風景な環境に馴染めるのか心配ではございますが、よろしくお願いいたします。二日目本日ご相談させていただいた件について、速やかに対処していただけたら嬉しく存じます。三日目妹より荷物が届いているかと思いますが、まだわたくしの手元に届いておりません。四日目この件に関しては既にご説明申し上げました。五日目譲歩していただけないのならわたくしも譲歩できません。六日目あなたが譲らないのならわたくしも譲るつもりはございません。七日目あなたが譲らないのならわたしも譲るつもりはありません。

マシュ 一日目……二日目……三日目……四日目 ……五日目……六日目……七日目……明日からの共同生活が不安です。本当に、恐くて帰りたいです……。

   ティーとマシュが対角線上に残っている。
   ティーは、40から50くらいの婦人。気品と威厳が見て取れる。
   ティーがひとしきり髪をといたあと、ゆっくりと立ち上がり、マシュを見る。威圧的なオーラで近づく。

マシュ (不安げな表情で、独り言のようにぶつぶつと)八日目……九日目……十日目……十一日目……十二日目……じゅうさ……

   ティーがマシュの目の前に立つ。
   マシュは、20代真ん中くらいの女性。常に気弱でおどおどとした態度を取っている。

ティー (威圧的に)マッシュルーム。
マシュ (ビクビクしている)
ティー って、ケイティが呼んでるわ。あなたそれに対してなにもいわないの? もしかして気に入ってる?
マシュ (汗をかき、呼吸が少し荒い)
ティー いつも喋らないのね。わたしたちは喋っていいのよ。少なくともこの点においては大いに自由みたい。

   しばらく、マシュからの返答を待つ。

ティー (少し笑って)怯えてるの? 大丈夫よ。わたしはあなたの味方。少なくとも敵ではないから。一緒にお茶でもしましょうか?

   しばらく、マシュからの返答を待つ。

ティー (ゆっくりと、はっきりとした口調で)ここに、イスを持ってきていいかしら?

ティー、立ち上がり、元いた場所に行く。イスを抱えて振り返ったときには、マシュはもういない。

ティー (軽蔑的なまなざしで少し笑う)

ティーはまたイスを置き、座る。大きく息をつく。しばらくして、なにかを思い出そうとするが、なにも浮かんでこず、顔をしかめる。そこにケイティが歩いてくる。

    ケイティは30くらいの女性。いつも明るい雰囲気で、おしゃべりが好き。

ケイティ こんにちは。
ティー あら、こんにちは。
ケイティ 調子はどう?
ティー まずまずね。

   ケイティ、ティーの近くに座る。

ケイティ 知ってる?

   間。ケイティは笑顔でティーをジロジロ見ている。

ティー 「知ってる?」で止められても困るんだけど。
ケイティ いいこと教えてあげようか?
ティー 話したければどうぞ。
ケイティ わたしって、頭がいいのよ。
ティー ……。そう。
ケイティ そう思わない?
ティー (首をかしげる)
ケイティ だって、IQ160だもん。
ティー ケイティ、あなたがいってるのは身長のことじゃないの?
ケイティ なにいってんの。いくらわたしでもそんな間違いはしないから。
ティー それで?
ケイティ だから、わたし学者か政治家になるべきだったのよ。なんで秘書になんてなったんだろう。
ティー 秘書も素晴らしいと思うけど。
ケイティ 秘書にIQって必要なの?
ティー それは必要でしょう……おそらくね。ところで、どこで測定したの?
ケイティ なにを?
ティー IQ。
ケイティ 保健室。

   間。

ティー わたしそれより……
ケイティ マッシュルームに会った?
ティー ……さっき。
ケイティ そう。(嬉しそうに)マシュって呼んであげて。親しみを込めてね。
ティー 彼女、喋らないわね。もう、一週間近く経つのに。
ケイティ 二週間ね。
ティー わたしがいってるのはわたしたちがお互いに……
ケイティ マシュが喋らない理由、わたし知ってる。
ティー なに?
ケイティ 彼女、愛する人に熱湯をかけられたのよ。ノドにね。それで喋ることができないの。
ティー ホントに?
ケイティ ウソだと思うなら、聞いてみたらいいわ。

   間。ティーが一息ついて立ち上がる。

ケイティ どこ行くの?
ティー お茶。
ケイティ 届いたの? あなたのティーセット?
ティー 届いてるはずなのよ。本当に、あれがないと、わたしここではあと三日と生きてられないわ。
ケイティ もし届いてたらわたしもお茶に呼んでね。
ティー 約束するわ。

   ティー、退場。
   床に寝そべるケイティ。

ケイティ ……わたし、知ってるのよ。あなたが戦争で死んだってこと。わたしのあげたペンダント、たぶん奥さんのもとに届いてるわ。それを見て、なんて思ったかしら? たぶん死ぬほど悔しがったでしょうね。でも、しょうがないわよね、わたしたちの愛は本物だった。それはもう、どんな弾丸だろうと破壊することはできない! ……でも、あの人はその弾丸で死んでしまった。人の命は簡単に壊れちゃうものね……。でも愛は壊れなかったわ。きっと、あの世でも、まだわたしのことを愛しているわ。ふふ、しょうがない人ねぇ(くすくす笑う) 

   そこにサラが現れる。
   サラは35位の女性。表情は常に深い影がかかっているようで陰鬱。しかし、心からの愛情に溢れている。

ケイティ (サラに気づいて)ああ、サラ。元気?
サラ ごめんなさい……、今の話、立ち聞きするつもりじゃなかったんだけど。
ケイティ なんの話?
サラ あなたも大変な苦しみを乗り越えてきたのね? わかるわ……。
ケイティ (嬉しげに)ねぇ、マッシュルームに会った?
サラ (短い間)誰のこと?
ケイティ ほら、なんかマッシュルームみたいな人。全然喋らない。
サラ ああ……。
ケイティ マッシュルって呼んであげて。
サラ マッシュル……かわいい名前ね。
ケイティ でしょ? なんかもう仲良くなっちゃって。 
サラ いいわね。あなたはお友達を作るのが得意みたい。
ケイティ マッシュルってね、かわいそうなのよ。昔愛する人と心中しようとして、首を吊ったんだって。
サラ そうなの? なんてこと……。
ケイティ でも、彼女だけ生き残っちゃって……。そのときのショックで、声が出なくなったんだって。
サラ まぁ……(ひどく同情する)。
ケイティ あの人、ティーセット見つかったのかなぁ? ふふ、あの人ってここに来てから、お茶のことばかり。
サラ (マシュが歩いて来るのに気づく)あら、マッシュルが来る。ねぇ、ケイティ、わたしどんな風に声をかけたらいいと思う?
ケイティ なに?
サラ マッシュルが来るわ。あなた、話をするのが得意なんでしょ? どんな風に声をかければ……
ケイティ それより誰がティーセットを隠してるのかな? 
サラ 何の話?
ケイティ ちょっと見てこよう。

   ケイティ、退場。
   マシュが、おぼつかない足取りで歩いてくる。

サラ ……こんにちは。
マシュ (気づいていない。気分が悪そう)
サラ 最近、出歩くようになったのね。とてもいいことだわ。 

   マシュがサラの目の前にさしかかる。

サラ (気遣いながら)マッシュルーム。
マシュ (足が止まる)
サラ マッシュル。
マシュ (サラを見る)
サラ こんにちは。
マシュ (かぼそい声で)こんにちは。
サラ 喋れるの?
マシュ ……? 喋れますけど。
サラ だって、ケイティが、あなた声が出せないって。
マシュ おととい、話をしたじゃないですか?
サラ え? わたしと?
マシュ はい。
サラ 本当に? ごめんなさい。わたしすっかり忘れてたみたい。
マシュ いいんですよ。わたしなんか、存在感ないですし……。
サラ いえ、ごめんなさい。気を悪くしたわよね。
マシュ いえいえ、そんなことはないですよ。
サラ あれ、でもケイティが確かに。……いや、ケイティだったかしら、あなたが……まぁ、こんなことはどうでもいいわ。本当にごめんなさいね。
マシュ いえ。……それより、わたしマッシュルームという名前なんですか?
サラ え? 違うの?
マシュ たぶん……。
サラ そうなの? ごめんなさい、本当に重ね重ね……。でも、誰かが、そう言ってたのよ。誰が言ってたのか忘れちゃったけど……。
マシュ ケイティですね。
サラ そう、ケイティ。
マシュ 昨日、彼女と話をしたんですけど、5時間も彼女喋ってました。その間わたしがあんまり喋らないもので、「喋れない人」になったんだと思います。
サラ そうなの。あの人本当によく喋るわね。あ、わたしもよく喋ってるわね。ごめんなさい。(笑う)
マシュ (微笑む)
サラ あの……あっちで座ってお話ししない? わたしのほうが、きっと聞き役の素質はあるわ。
マシュ 庭に日が差して、とてもぽかぽかしてましたよ。
サラ あら、いいわね。じゃあ、庭に行きましょう。庭も不思議ね……。きっちり5センチの長さの芝生以外なにもないんだもの。

   マシュとサラが歩いて退場。
   入れ替わりに、ティーが登場。ひどく怒っている。

ティー ああ、もう耐えられない!

   イスにもたれて、うなだれる。

ティー 見つけたら殺してやるわ、あの男。何度いっても聞きやしない。どうしてわたしから紅茶を奪うの! ああ、もうっ、限界(ノドをかきむしる)! 紅茶が飲みたい。もう、この際、ティーバッグでもなんでもいいわ! 人が一回使ったティーバッグでもいい!

   ティー、ティーバッグをティーカップにピタピタ浸す仕草をする。取り憑かれたように夢中で。ティーバッグを口にくわえる。数秒   恍惚としているが、吐き出す。

ティー まずいっ! こんなもの飲めないわ。なんてひどいのっ! 最高のリーフと最高の水と最高のティーセットが必要なの。そして、最高の服に最高のテーブルとイス、最高のお友達がいればこの上ないわ。なんで、どれ一つとして手に入らないの! 

   そこに、ケイティが現れる。

ケイティ あなた、紅茶バカね。これからカップ=オブ=ティーと呼んであげる。
ティー あんたは欲しいモノがないの? こんな刑務所みたいなところにいて。
ケイティ 欲しいものなんて何でも手に入るじゃない。天国みたいなところよ。
ティー 本気で言ってるの?
ケイティ ええ。でもね、知ってる? ここは一番欲しいモノは手に入らないの。でも、一番大事なモノは手に入るかもしれないのよ。
ティー あの男がそういってたんでしょ?
ケイティ そう。日記に書いてあったの。あの人、わたしと交換日記をしたいのよ。子供ね。
ティー じゃあ、ちょっとあなたから聞いてもらえる? いつになったら、最高のお茶ができるのって? いえ、最低限のお茶ができるのはいつって 聞いて。いっぱいの皮肉をこめてね。
ケイティ 自分でいえばいいじゃない? 
ティー どうせ、わたしの日記なんて無視してるんだから。支配権は自分にあると思って、わたしの苦しみを楽しんで見てるのよ。
ケイティ 禁断症状が出てるんなら、薬飲んだ方がいいわよ。
ティー わたしはね、人間として当然の権利を主張しているだけなの。
ケイティ わかったわ。一応聞いておいてあげる。でも、あの人わたしにぞっこんだから、きっとわたしの願いしか聞いてくれないわよ。たぶん、明日にはダイヤの指輪が届くわ。
ティー (冷静になり、ため息をついて)あんたに頼んだわたしが間違ってたわ。(立ち上がる)紅茶さえあれば、わたしは幸せに生きていけるのに……はぁ……。

   ティー、重い足取りで去る。ケイティは妄想の世界に入っている。

ケイティ どうして世の中の男という男はわたしに恋をしてしまうのかしら。誰も知らない、閉鎖されたこんな場所でも声をかけてくる男がいる。まるで、ネズミみたいにどこからか沸いてくる。ほら、あそこにも、あそこにも男の人がわたしを見てる。でも、ごめんなさい。わたしには一人の男を選ぶ事なんて出来ないわ。だって、みんなわたしにとっては、見分けのつかないネズミ同然。魔法の力でもいいから、ネズミから姿を変えて欲しいわ。そうすればデートくらいしてあげるのに。
  
   ケイティ、去る。
   マシュとサラが歩いてくる。ほのかな陽が差し込んでいる。温かな雰囲気。

サラ ここにでも座りましょう。
マシュ はい。
サラ あの……なんて呼んだらいいかしら、その……ニックネームなんてある?
マシュ あの、いえ……ご自由に、好きなように呼んでください。
サラ それじゃあ、マッシュ……(慌てて取り消すように)ごめんなさい。最初の印象がこびりついちゃって、そこから離れなきゃダメよね。ええっと……(数秒後)マシュマロ……?
マシュ ……。
サラ ごめんなさい。わたし、今失礼なこといったわよね! ああ〜もう、バカだわ。どうかしてる!
マシュ なんでもいいですよ。そんなことで苦しまないでください。わたしはどんな名前でも受け入れます。マッシュルームでもマシュマロでも。
サラ でも、どっちも食べ物じゃないっ。マシュ……マシュ……マシュがつく食べ物じゃないもの……マッシュポテトも食べ物だし……(悩む)。
マシュ ……あの、じゃあ「マシュ」ではいけませんか。
サラ マシュ?
マシュ ……それでよろしいのであれば。
サラ ごめんなさいね。気の利いたニックネームが見つからなくて。じゃあ、マシュね。うん、素敵。
マシュ あの、わたしはサラさんのことを……
サラ サラでいいわ。サラって呼んでもらうのが好きなの。
マシュ ……はい。
サラ (会話を見つけようとして)その……どう? ここはもう慣れた……(義務感で)マシュ?
マシュ そうですね……。わたしはどこにいても、慣れるという感覚がないんですが……少し落ち着いてきました。
サラ そう……じゃあ、よかったわね。わたしはダメ。白い壁、黒い床、緑の芝生、灰色の塀……なんかわたしたちを丸ごと洗浄しようとしてるみた いに無機質じゃない……(義務感で)マシュ?
マシュ そうですね……。でも、たぶん、根拠があってそうしてるんだと思います。
サラ その根拠もわたしたちに伝わらなければねぇ……マシュ?
マシュ (ぎこちなく会話を続け)でも、たぶん、何も考えずに受け入れることが大切なんだと思います……(プレッシャーから)サラ。
サラ (笑顔になって)受け入れる! うん、そうね、わたしたちは覚悟を持って来たんだからね!
マシュ (少し引きつった笑顔)
サラ なにか疲れるわね……。
マシュ (小さくうなずいて見せる)
サラ もう少しリラックスしましょうね、お互い。でも、一体何日間続くのかしらねぇ?
マシュ 説明会の時は、一ヶ月で終わるかもしれないし、一年続くかもしれないっていってましたよ。
サラ 説明会なんてあった?
マシュ ……たぶん。なかったですか?
サラ そう……忘れてしまったみたい。

   間。
 
マシュ あの説明会がなかったとしたら……じゃあわたしはなんのためにここにいるんでしょう?
サラ あ、ごめんなさい。わたしが単に忘れてるだけよ。本当に忘れっぽいの。そんなに深刻にならないで。
マシュ なんだか毎日不安で、ずっと足が床から離れてるような感じなんです。
サラ よくわかるわ、その気持ち。
マシュ 記憶も、すごくはっきりしてるものと、ずっとぼんやりしてるものがあって……自分自身に対しても実感がないときがあるんです。
サラ そうね……わたしもそんな感じ。
マシュ (周りがだんだんと見えなくなり)わたしはなんのために生きてるんだろう……? 
サラ あまり考え込まないほうがいいわよ……?
マシュ (うつむいたまま考え込む)
サラ ……。
マシュ ……。
サラ ……マシュ……?

   長い間。

サラ マシュ……そっち、日陰になってるわよ。もう少し、移動したほうがいいわ。

サラ、横に1.5メートルほど移動する。マシュの耳には入っていないので、二人の距離が遠のく。
陽が落ちていく。

サラ ……あの人も、ずっと同じことを考えていた。「おれはなんのために生きてるんだろう」って……。待って。あの人、「おれ」っていってたかしら、「ぼく」っていってたかしら? ……思い出せない。(うつむいて考え込む)

    いつしか、二人とも日陰に入る。
    音楽。
    溶暗。

*  *

   一週間ほど経過している。
   髪が乱れ、服もしわくちゃのティーが、焦燥した顔つきで登場。手にはノートを持っている。後ろから、楽しそうにケイティがつい   てくる。ティー、おもむろに立ち止まり、ノートを破って捨てる。
   
ティー 日記をつける意味があるの? バカじゃないの。わたしの顔を見たら、どんなことが起こってるかくらいわかるでしょ?
ケイティ (破ったノートをつまんで拾い)何冊目?
ティー 知らない。ここ一週間くらい毎日。
ケイティ お互い譲らないもんだねぇ。
ティー わたしがいつ気が狂うのか観察してるのよ。それで紅茶好きの中年の女が最も早く気が狂うって結果を学会に発表するんだ。
ケイティ なるほど。
ティー ねぇ、なんで、あの男はこうまでして紅茶を拒むの?
ケイティ なんで、ティーはこうまでして紅茶にこだわるの?
ティー もし、あなたが自分の子供を誘拐されて、いつまでたっても、どう頑張っても返してくれなかったらどう? 自分の子供が監禁されてると思って。
ケイティ どうかなぁ? わたしの場合、誰かが助けてくれるけれど。
ティー (頭を指さして)こうなるの!

   反対側からマシュが歩いてきている。そそくさと道を空けて通り過ぎようとする。ティーはマシュを威嚇する。マシュは小走りに   逃げ去る。

ティー ふんっ、昔いた召使いにそっくり。(寝っ転がって)ねぇ、なにか話をして。最近あなたの話でも聞いてないとイライラを紛らわせられないわ
ケイティ (笑う)
ティー いいわ、あなたは。話が長いし。面白いし。作家になったらきっと売れるわよ。
ケイティ わたしは、いつも本当のことを喋ってるんだけど。
ティー じゃあ、世界一素敵で複雑な自伝になるわね。わたしには、本当のことがさっぱりわからないわ。ずっと悪い夢の中にいるみたい。眠ってもそう。見る夢は、人に追われるものばかり。そういうときは決まって頭が痛くなるの。後頭部がね。
ケイティ 紅茶を飲めばそれがおさまるの?
ティー 間違いなくね。
ケイティ じゃあ、紅茶はあなたにとって子供でもあり薬でもあるんだ。  
ティー まさにそう。
ケイティ ふ〜ん。面白い。わたしにとっては、ただの飲み物の一つだけど。
ティー 人間誰だって、大事なものがあるはずよ。あなたもそうでしょ。サラもわたしみたいに毎日何かを探してさまよってるわ。亡霊のように。どこにもいない存在なのに。
ケイティ じゃあ、諦めて、気持ちを切り替えたらいいのに。
ティー それがね、できないのよ……。人間ってそういうもんでしょ。
ケイティ そう……? 簡単そうに見えるけど。

   サラが歩いてくる。

ケイティ (サラを見て)ホントだ。あの人もちょっとやつれてきた。まだ三週間ほどなのに。
サラ (二人に気づいて)こんにちは。朝食はもうとったの? 
ケイティ ねぇ、あなたはなにを探してるの?
サラ なんのこと?
ケイティ あなたにとって一番大事なものってなに?
サラ 一番大事なもの……? (しばらく考えて) 「心」かしら……。
ケイティ 心を探してるの?
ティー わかってないのね。サラはね、なくした愛を取り戻したいの。ね? あなたこの前いってたわよね?
サラ (照れながら)そうね……。
ティー 心を受け入れたら愛になるって、これまた詩人よね。(軽く笑う)
ケイティ そうだ! あなたも愛に生きれば紅茶のことなんて気にしなくなるのよ! それでこそ女ってものじゃない。
ティー もう、そんな時代とっくに過ぎたわ……。大体、ここのどこに男がいるの?
ケイティ 一人いるじゃない。
ティー 冗談よして!
ケイティ 憎しみも愛に変わるもんよ。
サラ 本当にそう。愛も憎しみに変わるし。
ケイティ サラも経験があるんだ。
ティー いい? あの男はこの世で一番憎い敵なの。もし、わたしたちを監視してる部屋から出てきて目の前に現れたら真っ先に噛みついてノドを引きちぎってやるわ。  
サラ (微妙に笑顔で)こわい。
ケイティ でも、部屋から出てきたとき、あなたのお気に入りのティーセットを持ってたらどうする? そして最高級のキームン・ティーが淹れられてたら? そのとき憎しみが愛に変わるのよ。
ティー (鼻で笑って)あつあつのティーポットを奪って顔に押しつけてやるわ。
サラ (大きく笑う)

サラの予想外の大きな笑い声に、ケイティとティーはサラを見る。

サラ (我に返って)あ……ごめんなさい。
ティー とにかく、あの男を愛するなんて、紅茶を嫌うくらいありえないから。
ケイティ あなた、紅茶を嫌いになるわ。
ティー (一瞬の間)なにそれ?
ケイティ ん? 予言。
ティー バカじゃないの。なにを根拠にそんなこといってるの?
ケイティ 予言に根拠なんていらないのよ。直感だもん。
ティー 今度はなに? わたしは予言者だったって話? あいにく、そんなバカげた話だったら聞きたくないわ。(立ち去ろうとする)(髪を見て)あ あ、もう! 紅茶のせいで最高級のトリートメントも必要になった!

   ティー、去る。
   ケイティ、嘲笑を浮かべて見送る。

ケイティ (サラを見て)ちょっと座って話をしない?
サラ でも……わたし……ええ(遠慮がちにうなずく)。

   二人、座る。

ケイティ (サラを観察する)
サラ (その視線にプレッシャーを感じる)……なに?
ケイティ 別に。探し物は見つかりそう?
サラ 心がってこと?
ケイティ そう。
サラ わからないわ。
ケイティ 大変そうね。でももがき苦しむのはよくないことよ。むしろ楽しむくらいじゃなくちゃ。
サラ わたしにはとても……。あなたはなにを探してるの?
ケイティ なにも探してないわよ。だって、なにもかもがすぐに見つかるもん。
サラ 羨ましいわ……。
ケイティ そう? きっとサラにもできることよ。そのコツを教えてあげようか?
サラ 是非。
ケイティ 捨てること。いくらでも捨てていいと思えばいくらでも見つかるの。
サラ そういうものなの?
ケイティ ええ。
サラ でも、もう捨てるものなんてないのよ。全部失ってしまったから……。
ケイティ そう、残念ね。
サラ わたしにまだ捨てるものが一つでもあれば、戻ってくるかもしれないのね……。(立ち上がる) ありがとう。じゃあ、今度は捨てるものを探してみるわ。

   サラ、マシュが去った方向に去る。

ケイティ ……25才の時、エジプトのピラミッドで突然ファラオの霊が降りてきたの。そしてわたしに、翡翠の髪飾りをくれた。それ以来、人の未来を見通すことができるようになった。これは悲しい能力だったわ。わたしは、エジプトに考古学を修めにいったのに、毎日人が押し寄せるものだから、全然勉強する時間が取れない。いっそ、未来を見る能力ではなくて、過去を見る能力だったら考古学を勉強しなくてもよかったのに。わたしの能力を知って、国王が大きな宮殿をプレゼントしてきたわ。そこに永住して国のために予言し続けてほしかったの。でも、もうあまりに話が大きくなりすぎて、耐えきれなくなってしまって、わたしは遂に髪飾りをナイル川に投げ捨てた。それから普通の人に戻るのに時間はかからなかったわ。たぶん、あのときの能力がまだ少し残ってるのね……。ふふ、この先のこと、少し予言してみよう。

   ケイティ、去る。
    マシュが逃げるようにこそこそと歩いてくる。赤ちゃんの泣き声がどこからか聞こえてきて、マシュは立ち止まる。イライラした   様子で、辺りを歩き回る。
   サラが現れる。

サラ マシュ。

   その瞬間、赤ちゃんの泣き声はやみ、マシュの動きも止まる。

サラ 大丈夫? 最近あなた落ち着かないみたいね。
マシュ サラさん……。壁の奥に人がいるみたいなんです。
サラ 壁の奥?
マシュ だんだん、声が大きくなって……。
サラ 聞こえるの?
マシュ 今は赤ちゃんの泣き声が……。
サラ ストレスが溜まってるみたい。少し休んだ方がいいわよ。あなたストレス解消が苦手みたい。
マシュ (身体に力が入った状態で、訴えるように)何日か前から……白い壁がおかしいんです……語りかけてくるようになって……それで楽しそうに喋ってる人の声とか、赤ちゃんの泣き声とかが聞こえてくるんです……。
サラ それははっきりと?(マシュの背中を優しく撫でる)
マシュ (うなずく)
サラ いつも聞こえるの?
マシュ (首を振る)
サラ 時々?
マシュ (うなずく)
サラ どんなときに?
マシュ (首を振る)
サラ 大丈夫よ。ストレスで疲れが出てるだけ。抱きしめてあげる。(マシュを抱きしめる)苦しいときは、わたしのぬくもりを貸してあげる。よく眠れるわよ。……さぁ、わたしの部屋にきなさい。
マシュ (力を入れて拒む)
サラ 遠慮することはないの。わたしの部屋に来なさい。そうしたら楽になるから。……ね?

   サラ、マシュを引きずる。マシュは足で踏ん張る。

サラ どうしたの?
マシュ ……。
サラ あなた、愛する人と心中しようとしたんでしょ。わたし、あなたの気持ちがよくわかるの。だから、あなたの心を癒してあげたいのよ。
マシュ ……。
サラ 身体が硬くなってる……。さぁ、早く休んだ方がいいわ。(マシュを引きずる)
マシュ (呼吸が荒くなってくる)
サラ (異変を見て取って)大丈夫? 
マシュ ……わたし……!
サラ 心配することはないの。一緒にスープを飲みましょう。おいしいおいしいスープよ。

   サラの力が弱まった瞬間、マシュは飛び出して、走り去る。

サラ ……臆病なのね。愛を受け入れられないなんて悲しいこと。

   どちらかというと臆病に見えたサラの態度が今は強く見える。

サラ 教えてあげなきゃ。愛を受け入れることを知らないと、憎しみがやってくるから。

   サラ、マシュを追いかけようと歩き出したとき、突然なにかの存在を感じて立ち止まる。

サラ そこに誰かいるの? ……もしかして、あなた? あなたでしょ。きっとそうよ。もっと、こっちに来て……。壁から出てきてちょうだい。もう、わたしなにもかも変わったから大丈夫よ。

   じっと、その方向を期待の眼差しで見ている。

サラ ……そうだ、手に入れるには、何かを捨てないと……ケイティがいってた……。でも、何を捨てればいいの。捨てられるもの……

   焦りながら上に着ていた衣服を脱ぎ捨てる。やせ細った身体が露わになる。

サラ ……名前だけでも教えて。あなたの名前……。それがだめなら、あなたが自分のことをなんて呼んでいたか、それだけでもいいの。「おれ」……「ぼく」……。わたしのことは、サラって呼んでたわよね。それは覚えてるの。あなたは……

   ケイティが現れる。

ケイティ 予言を教えてあげる。あなたは死ぬの。

   ケイティ去る。

サラ (茫然と)……消えてしまった……。顔もよくわからなかった……。……「あなた死ぬ」? 今、誰かそういったような気が……。(間)あなたは死んで、わたしは生きて……あなたの心は旅に出て、私の心は死んで……。(唇を噛む)また、考えすぎる癖が。(間)……なにもない、真っ白な世界は、わたしを苦しみから解き放ってくれるんじゃない。わたしの記憶を徐々に浮かび上がらせていく空間なのね……。

   溶暗。

   *  *

   更に一週間ほどが経過。マシュがティーの髪をとかしている。ティーは焦燥としている。近くには退屈そうにケイティが座ってい   る。

ティー 今日で本当に一ヶ月……?
マシュ 一ヶ月です。
ティー そう……じゃあ、とうとう一ヶ月が経ったのね。こんなにも長く感じた一ヶ月はなかったわ。
ケイティ あなた10年くらい年取ったように見える。
ティー 本当に、最近はもう……痛いっ
マシュ ごめんなさい。
ティー もっと優しく髪をといて。
マシュ はい。
ティー 最近はもう死ぬんじゃないかということばかり思ってるのよ。
ケイティ 紅茶は諦めたの?
ティー …………わたし、一体なんのために、紅茶を飲もうとしているのかしら。
ケイティ 今頃、そんなことを疑問に思ってるの?
ティー わたしの紅茶は死んでしまったのかもしれないわ……。
マシュ 大丈夫ですよ。きっとどこかでティーさんを待っています。
ティー そうだといいんだけど……。
マシュ もうすぐですよ。
ティー もうすぐねぇ。この闘いに終わりはくるのかしら。   
ケイティ あなたが紅茶を諦める時が来るなら、あの人が諦める時も来るでしょ。 
ティー でも、あの男には何一つ苦しみなんてないのよ。立場が違うわ。
ケイティ でも、日記には終わりが近いということを書いていたのよ。
ティー 本当に?
ケイティ あの人、わたしにだけはなんでも話すのね。
マシュ なんで終わりが近いんですか?
ケイティ それは、早く終わらせて、わたしと一緒になりたいんじゃないの? はっきりいってお断りだけどね。 
マシュ そうなんだ……。
ティー (マシュだけにわかるように、信じないほうがいいと合図を送る)
マシュ 説明会の時、こちらの意思では終了を決められないっていってたから、やっぱり向こうが諦めないとずっと続くんじゃないですか?
ティー 説明会? そんなのあったかしら?
マシュ たぶん……。
ケイティ あったよ。でも、終わりの話なんかしなかった。とにかく全部真っ白になるまで、どんなことでも受け入れるしかないって話だけ。
ティー それは違うわ。真っ白って何? 大事なものを奪われて人はどれだけ正常を保ってられるかの実験でしょ?
マシュ あの……そうするとわたしは該当しないことになるんですけど……。
ケイティ これ、もしかして王子の結婚相手を決めるオーディションじゃなかった?
ティー (笑って)それだけは違うわ。
ケイティ そう? ……はぁ、でもわたしもそろそろ出たいなぁ。さすがに退屈。ここではなんでも手に入るっていったけど、外に連れ出してくれる人はいないの。みんな見てるだけ。
マシュ そうですね……。わたしは壁の向こうにいる人たちに会ってみたいです。
ティー 壁の向こうに人が?
マシュ はい。赤ちゃんのいる夫婦みたいです。
ティー (ケイティを見る)
ケイティ (知らないという仕草)
ティー なんで知ってるの?
マシュ 声が聞こえるんですよ。向こうもイライラしてるみたいで、最近はよくケンカしているんです。そんなときは決まって赤ちゃんが大きな声で泣いているんです。ビャー、ビャーって、まるで赤ちゃんがいじめられてるみたいに。わたし、それがいつも気になってて……。

   沈黙。

ティー 本当に早く終わればいいわ……。
ケイティ そういえば、後頭部の痛みはどう?
ティー 不思議と最近はあまりないわね。
ケイティ 紅茶のことを諦め始めたからじゃない?
ティー だとしたら皮肉なことね。

   サラが登場。

ティー ああ、サラ。

   マシュが反応して、逃げようとする。
   サラが慌てて早足で追いかけて捕まえる。

サラ ごめんなさい。いつもこうなの。自分でも何度も何度も後悔して、しないように気をつけてるんだけど、ついつい……。本当にごめんなさい、もうしないから。
マシュ 何度目ですか……? もう聞き飽きました。
サラ ごめんなさい。反省してるわ。
マシュ もう、わたしに構わないでほしいんです。 
サラ そんなこといわないで。
マシュ わたしには必要ないんです。
サラ そんな。……そんな言い方はないと思う。
マシュ 部屋に戻ります。
サラ 待って(強く手首を握って引き留める)。
マシュ 痛い。
サラ どうしてすぐ逃げようとするの。そんなのずるい! わたしはあなたのことを思って、あなたのためにスープを分けてあげたりしてるのに!
マシュ それが余計なんです!
サラ (ショックを受けて)……どうして?

   ティーとケイティは、静かに距離を置く。  

マシュ もう……わかってください。苦しいんです。
サラ だから、わたしがその苦しみを……
マシュ あなたのせいでもっと苦しくなるんです!
サラ じゃあどうしてほしいの? わたし、精一杯のことをしてるのに。
マシュ なにもしないでください。……放っておいてください。わたしは、あなたの恋人じゃないんですから!

   サラ、衝動的に手を強く引っ張る。マシュは悲鳴を上げて床に倒れる。サラの表情が険しくなってる。 

マシュ わたしをあなたの恋人の身代わりにしないでください!

   サラ、怒りに震えてマシュを見ている。

サラ どうしてわからないの! いい? 人は一人では生きていけないの? だからこそ愛する人が必要なの。でも、そんなに簡単に見つかるものじゃないわ。愛を与えてくれる人なんて、願っても見つかるものじゃないのよ! それなのに、どうして愛を与えてくれる人に対してそんな態度を取るの? ……あなたは間違ってる!
マシュ ……もう、助けてください。

   サラ、衝動的にマシュの髪につかみかかる。我を忘れて、マシュを振り回す。悲鳴を上げて助けを乏うマシュ。
   ケイティとティーが見かねて二人の所へ。

ティー ちょっとちょっと!
ケイティ 離して、サラ!

   声も届かずサラはマシュを振り回す。

ケイティ サラ! ほしければ捨てるのよ!
サラ (声が聞こえて)捨てる? いうことを聞かない、悪いのはこの人なのよ!

   サラ、またマシュの髪を引っ張る。ケイティとティーが強引に止めに入る。

サラ 邪魔しないで!
ケイティ 離して! あなたが諦めないと、心は手に入らないのよ!
マシュ やめて、あなた……!

   サラの力が弱まる。
   赤ん坊の泣き声がかすかに聞こえる。

マシュ もうやめて……! あたしが全部悪いから ……! だからやめて、あなた……。(赤ん坊の泣き声に気づいて)だめ、その子はやめて! その子は関係ないでしょ! やめて! 

   一生懸命に、何者かを止め、赤ちゃんを取り戻そうとしている。赤ちゃんの泣き声はますます大きくなる。

サラ マシュ、大丈夫?
マシュ (サラがまったく見えておらず)やめて! なんでそんなことするの! あたしたちの赤ちゃんでしょ! (サラにつかみかかる)お願いだから! その手を離して!
サラ マシュ?
マシュ (サラの胸元をつかんで嘆願するように) もうやめて! 赤ちゃんを離して! 殴るならわたしを殴って!
サラ (恐くて、降参のようなポーズを取る)離したわ。安心して。わたし、あなたを捨てるから! あなたを捨てる!
マシュ 赤ちゃんを……返して……。
サラ (戸惑いながら架空の赤ちゃんを差し出す)

   サラは、戸惑いながらも架空の赤ちゃんを差し出す。マシュは大事そうに両腕で抱きかかえて、そのまま床にうずくまる。目を   つぶって、ほっとした顔で、抱きしめたまま添い寝する。

サラ 大丈夫、マシュ……?
ケイティ 安心したみたいよ。
ティー そうね。

   サラは心配そうにマシュを見ている。ケイティとティーは立ったまま、冷淡でありながら愛情をにじませた視線を送っている。

ティー ……これはおめでとうというべきなのかしら?
ケイティ おめでとうでしょ。これが一瞬のことだったとしても。
ティー 人は一ヶ月で気が狂うって結果が出たんだものね。
ケイティ 違うわよ。正気に戻ったとき、なにも覚えていなかったとしても、一度は記憶が戻ったんだから、これはおめでとうというべきでしょ。おめでとう、マッシュルーム。
ティー おめでとう、マシュ。
ケイティ あの人、来るかしら。様子は全部見てるはず。わたしと直接会うのが恐くて来ないかもね。
ティー 違うわ。わたしと直接会うのが恐いのよ。
ケイティ 今、ドアが開く音が聞こえなかった?
ティー いや。
ケイティ そう? だって、足音が聞こえるけど。
ティー わたし、部屋に戻ってるわ……。あの男の顔を見たら衝動を抑えられないかもしれないから。
ケイティ ぶん殴りたいんじゃなかったの?
ティー それじゃ、紅茶は手に入らないのよ。わかったわ。

   ティー、去っていく。

ケイティ じゃあ、わたしも。たぶん、わたしと直接会うときは、あの人なりに演出がいるだろうから。

   ケイティ、去る。
   マシュは眠っている。

サラ ……捨てたのに、思い出せない……。それどころか、どんどんと忘れていく。もう忘れるものなんてないのに、なにもか剥がれ落ちて消えていく……。どうしたらいいの? まだ名前も顔も、全く思い出せない。わたしが、マシュといて居心地がいいと感じ出したから? もう、捨てるわ。捨てるから、なにもいらないから、あなたのことを思い出したい。(沈黙)たぶん……わたしがあのとき、どうあっても引き留めようとしたから。髪の毛一本でも離したくないと思ったから。捨てることが出来なかったから、今は、よかった思い出も、あの人の名前や呼び名すらも思い出せないんだわ。あのとき捨てられていれば……! でも、もう捨てるものがない……。捨てるもの……? ……あとはわたしの命だけだわ……。

   複雑な逡巡。その末、安堵の表情を浮かべているマシュに目がとまり、顔つきが変わる。そして、ゆっくりとマシュの首に手を   伸ばす。

   暗転。

   * *

   椅子に腰掛け、優雅に紅茶をすするティー。最高級とはいえないが、彼女の趣味に合うティーセットが横にあり、目の前には   書きかけの手紙がある。髪は美しく整えられ、幸福感に溢れている。

ティー はぁー、おいしい。わたしはこれでいいわ。一番大事なのは紅茶。それでいいの、もう。昔のことはどうでもいいわ。最高級じゃなくてもいいの。(紅茶に向かって)あなたがいればそれで幸せ。(微笑む)(手紙に筆を走らせる)ケイティ、あんたは気の毒ねぇ。あんたは今のわたしみたいに幸せだったのに。正体がわかってしまって……。でもあんたのことだから、またすっかり全部を捨てて空想の世界のヒロインになってるんでしょうね。(筆を置いて)でもマスコミは恐いわね……。誰も知らなかったことまで調べ上げてくる。どこまでが真実なのかはわからないけれど。あんな事件沙汰にさえならなければ、今でもあの白い壁のように空白でいられたのよ。何者にも色づけされずに……。なくしたものをなくしたままでいるのは決して悪いことじゃないわ。少なくとも精神面では、取り戻そうとするよりマシ。やっぱり、大事なものを取り戻そうと必死だった人ほど、憐れに見えたもの。わたしもそうだったけど、わたし以上にサラ……そしてサラ以上に…………あの男。

   ティー、思い出して少し気分が悪くなる。気持ちを切り替えて、また筆を走らせる。
   音楽。

   幕。

 

 

*許可なき使用を禁じます。
上演を希望する場合は、STONEψWINGS別役まで。



 
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