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海のソナタ
作 本保弘人
 



1,夜

 海に面した別荘の一室。中央にグランドピアノが置かれている。
 先生がこの家で亡くなってから一週間が経つ。
 先生の遺稿を整理するため弟子であるわたしはこの別荘にやってきた。
 別荘には夫人が一人。子供はいない。夫人は音楽のことについては全く知識がないらしい。それでわたしが呼ばれたというわけだ。ところで彼女はわたしが先生と愛人関係に あったことを知っているのだろうか。


夫人(鷺沢真樹) どうぞいらっしゃいませ。
わたし(成瀬和音) 失礼します。(並んだ書籍を見て)わ、凄いですね。
夫人 主人は片づけが苦手だったものですから。
わたし CDも沢山ありますね。シベリウスが7組。
夫人 え、4組じゃありません?
わたし いえ、裏に…、あ、そうですね。4組ですね。失礼しました。
夫人 主人は大学に行かない日は朝から晩までここで仕事をしてましたのよ。
わたし ええ、先生には本当にお世話になりました。
夫人 そういえば先日はどうもお手伝いに来て下さってありがとうございました。
わたし いえ、わたしが最後の直弟子ということになりますから当然です。
夫人 ええと大学院の。
わたし 二年です。ディプロマコースですけど。
夫人 ディプロマコース?
わたし ええ、学科はなくて実技だけの。
夫人 ああ、そんなコースがあるんですか。
わたし ええ、わたし勉強はどちらかといえば苦手ですから。
夫人 でも凄いですわね。この間の日音で二位だなんて。
わたし いえ、大したこと無いですよ。これも先生のお陰です。ええと先生が亡くなられた後、このお部屋は?
夫人 そのままにしてあります。楽譜や何やかやが散らばってますけどそのままに。
わたし そうですか。じゃあ、早速仕事に移らせて頂きます。
夫人 お手が必要になったらいつでも呼んで下さいね。
わたし しばらく泊まり込みで仕事になると思いますがよろしいですか?
夫人 ええ、おかまいなく。
わたし お手数かけます。
夫人 いいえ、じゃ失礼します。

  夫人退場。
  わたしはピアノの上に置かれた楽譜を手にする。

わたし タイトルは書かれていない。フラグメントか。

   わたしはノートに「フラグメント」と書き込み。仮ナンバー1をつける。
   その断片をピアノで弾いてみるわたし。前衛的な響きがする。

わたし セリー手法ね。でももうこれで限界みたい。これ以上続けられなくて諦めたってわけか。

    わたしはノートに手法上に無理があり断念と書き込む。
    わたしは次の楽譜を手に取る。

わたし 未発表の遺作かも知れない。完成は…してないようね。

   ノートに未完成と書き込む。
   わたしはその楽譜を指でなぞってみる。わたしの耳の中で音が響く。

わたし 手法的にはそう新しくはないわね。作風から言って近年の作とも思えない。奥さん、奥さん、ちょっといいですか。

   夫人が入ってくる。

夫人 はい、なんでしょう。

わたし この曲に聴き憶えはありませんか?

   ピアノでその断片をわたしは弾いた。

わたし どうでしょう? 聴いたことないですか?
夫人 さあ、ちょっとわかりかねます。
わたし 先生は楽譜に完成年月日を書き込まないんですよね。
夫人 はい。たまに書いてあるものもありますが、ほとんどの作品には。
わたし なら完成時期は推量するしかない。紙の感じから言ってそう古いものだとは思えないんですけど作風からいえば近年のものとも考えにくいんですよね。昔書いたものを再構成しようとしたのか…。
夫人 わたし音楽のことはさっぱりわかりませんので。
わたし ええ、でも先生がいつどんな曲を書いていたかはご存じじゃないんですか?
夫人 ええ、あの人はピアノを使って作曲をするタイプではありませんでしたから。
わたし ピアノを使わない?
夫人 そりゃ全然弾かない何て事はないですけれど、仕事中はあまりピアノの音は聴こえませんでしたね。他の作曲家のものはよく弾いてましたけど。
わたし 先生は絶対音感があったからピアノを弾かなくても作曲できたんでしょう。
夫人 ああ、そうなのかも知れません。
わたし もう一度弾いてみます。聞き覚えのあるところがあったら言って下さい。

   わたしはかなりの小節をピアノで弾く。

わたし どうですか?
夫人 わかりません。

  ふと、夫人、涙をこぼす。

わたし 奥さんどうされました?
夫人 いえ、ついあの人のことを思い出しまして。
わたし そうですか……。
夫人 ついこの間まではあんなに元気だったのに急に逝ってしまうなんて。
わたし ええ、そうですね。

   だが泣きたいのはわたしの方だった。先生から最も愛されたのはこの女性ではなく他ならぬ私自身だと確信していたから。

夫人 フランス政府から認められてこれからって時に。
わたし ええ、お気持ちお察しします。
夫人 涙を見せたりして済みません。下にいますね。
わたし はい。

   夫人去る。
   わたしは気持ちを落ち着かせるために一曲弾く。ドビュッシー「月の光」
   わたしは途中で弾くのをやめ、書棚にあるファイルされた楽譜を取り出す。

わたし 懐かしい。

   そこには先生の代表作である「ピアノのためのレクイエム」や「光の輪の中を」などが収録されている。

   「ピアノのためのレクエイム」を弾き出す私。

   途中でドアが開き、夫人が顔を覗かせるがわたしは気がつかなかった。
   曲を弾き終えると夫人の声がする。

夫人 ブラボー
わたし 奥さん。
夫人 作曲だけじゃなくピアニストとしても大したものなのね。あなた。
わたし いえ、そんな。
夫人 葬儀の時もあんな学生じゃなくてあなたに弾いて貰いたかったわ。
わたし とんでもない。
夫人 この曲はね。子供が死んだときに書かれた曲なの。
わたし お子さんいらっしゃったんですか。
夫人 ええ、もう十年以上も前だけどね。生まれてすぐに死んだの。
わたし そうだったんですか。わたし全然知らなくて。
夫人 あなたいくつ?
わたし 24です。
夫人 じゃあなたがまだ中学生だった頃だ。皮肉なことに主人はこの曲で出世したんですよ。「レクイエム」で出世何てねえ、どこかの誰かみたい。
わたし ええ、そうですね。でもそれからの先生の活躍凄かった。
夫人 ええ、飛ぶ鳥を落とす勢いというのはああいうのを言うのかしらねえ。芸術祭賞に文化庁特別賞、日本作曲家協会賞、芥川作曲賞。本当に凄かった。
わたし わたしそんな凄い先生だなんて大学にはいった頃はまだ知らなかったんですよ。ただ「ピアノのためのレクイエム」の作曲家だとしか。知ってたらあんなに気安く近寄れなかったと思う。
夫人 ええ、そうね。それで愛人を何人か作ったのね。
わたし え?
夫人 どこの誰かは知らないけど、帰ってきたら香水の匂いがするのよ。あの人仕事だなんて言ってたけどあれは絶対女よ。
わたし でもいいんじゃないですか。酒も女もなんとやらといいますし。
夫人 ええ、でも女の人にもてる主人を持つというのも楽じゃないわね。ばれずにやってくれたらいいんだけど、あの人そういうところに無頓着だから。
わたし そうですね。そんな感じは受けました。
夫人 あなた主人とはどうだったの?
わたし え?
夫人 何かあった?
わたし いえ、先生と私はただの師弟関係でそれ以上深いものはないですよ。
夫人 そうよね。
わたし ええ、もし何かあったらこんなところにのこのこやって来られないですから。
夫人 勘ぐったりしてごめんなさい。仕事を続けて。もう少ししたらお夕食にしましょう。
わたし はい、お世話になります。

   夫人退場。

わたし 愛人。わたしの他にも何人もいたのか。

   わたし、楽譜やら、スケッチブックやらをひっくり返し、そこに譜面に目を通していく。
   携帯電話をかけるわたし。

わたし あ、音楽と生活社さんですか。桐野さんをお願いしたいんですけども。わたし成瀬といいます。はい。成瀬和音です。はい。その成瀬です。お願いします。
桐野さんですか。成瀬です。先日はどうも。いいえ、こちらこそ。今、鷺沢先生のお宅にお邪魔してるんですけど、先生のアーカイブってちゃんと整ってます?はい。発表されてないものや、未完成のものがありましたらこちらで整理しますので、明日? いいえ、いらっしゃらなくて結構です。そうですか、じゃおねがいしちゃおっかな。ええ、でも奥さんに確認をとらないと。ええ、じゃ確認を取り次第また電話しますね。はい、ありがとうございます。いいえ。はい。

   わたしは一つため息をついた。

わたし 一週間で終わるかな。

   再び断片らしきものを発見し、それを凝視してからピアノで弾き出す。

わたし これ知ってる。何かの作品のスケッチだ。ええと何だったっけ。

   しばらく考えたが答えは出てこなかった。

わたし ま、いいか。明日になればわかるんだし。

   わたし、違う楽譜を手に取り指でなぞる。

わたし これはあれね。「静謐」のスケッチね。

   わたしは楽譜を繰る。

わたし この辺が決定稿とはちょっと違うわね。バッテンがしてある。

   わたし、楽譜を探し続ける。
   そのうちにタイトルだけ書かれた楽譜をわたしは見つけた。

わたし 「海のソナタ」

   閉じられたその束にはタイトル以外に何も書かれてはいなかった。
   わたしはMDの入ったケースを探し、タイトルを順々に見ていく。

わたし あった。

   「海のソナタ」と書かれたMDをわたしは見つけ、コンポに入れてスタートボタンを押す。だが何の音も聞こえない。
   わたしはいったん、MDを取り出して両面を見てから再びかけてみる。ボリュームを上げる。
   やはり何の音もしない。
   わたしは他のMDを探す。しかし「海のソナタ」と書かれたMDはどこにもなかった。

わたし ないか…。

   ゆっくりと暗転。


   キッチン

  わたしと真樹さんは食事をしている。

夫人 成瀬さんはお料理の方は?
わたし あまり得意ではありません。母から包丁を握るのは危ないと言われてきましたので。
夫人 今はお一人?
わたし ええ。
夫人 じゃ、お料理の方は。
わたし 外食が多くなりますね。でも簡単なものなら作れますから。
夫人 そうじゃ、今日は沢山召し上がって。
わたし ありがとうございます。

   しばらく無言の食事シーンが続く。

夫人 博士課程にはいかれるの?
わたし いえ。
夫人 留学か何か?
わたし それも考えてないです。
夫人 じゃ進路はどうなさるの。
わたし ラジオ局から作曲の依頼が来ていますので当分はそれで。あと仙台市から新しい子供向けの歌の作曲も頼まれてますし、知り合いの演奏家からも作曲の依頼がありますので。
夫人 いいわね。才能があるって。
わたし いえ。
夫人 わたしクラシックの演奏とか作曲には全然詳しくなくて。あの人と知り合ったときも、わたしあの人が誰だか知らなかったのよ。あんなに有名だったのに。
わたし ええ、でも残念ですね。まだ若かったのに。
夫人 そうね。
わたし ええ…。
夫人 わたしあの人とずっといられるものだと思ってた。それは人はいつか死ぬものだってことは勿論わかってたけど。でもこんな早く逝ってしまうとは思ってもみなかった。
わたし 前から心臓はわるかったんですか。
夫人 ええまあ。
わたし ニトログリセリン持ってましたからね。
夫人 よくご存じね。
わたし え、ええ。一緒に仕事をする時間も長かったですから。
夫人 大学一年からでしたっけあの人に着かれたのは。
わたし そうです。
夫人 6年のつきあいになるのね。
わたし ええ。
夫人 何か羨ましい。音楽を通して交流できるって。
わたし いえ、そんな、まあ…。
夫人 わたしあの人のピアノの音が好きだった。夕方浜辺を散歩して帰ってくると主人のピアノの音がして。
わたし 素敵ですね。
夫人 ええ、優雅という言葉を絵に描いたような日々だった。
わたし なんか羨ましいです。
夫人 あなたはそういうことなかったの?
わたし え?
夫人 主人とは。
わたし ありませんでした。わたし達ただの師弟関係ですし。
夫人 あの人ももっと気を遣ってサービスしてあげたらよかったのに。
わたし いえ、そんな。
夫人 こんな若くて素敵なお嬢さんが近くにいるんだったら。
わたし いえ、わたし素敵でも何でもないですよ。不器用ですし。
夫人 でも作曲をされる方なんだから。不器用って事はないでしょう?
わたし いえ、林檎の皮も剥けないんですよ。わたし。
夫人 それはそれでしょうがないじゃない。怪我されるといけないんでしょう?
わたし でもちょっと甘やかされすぎたかなとは思っています。自分のことは自分で出来るようにしないと。
夫人 そうね。
わたし ええ。このままじゃ結婚してもいい奥さんになれないから。
夫人 そういう話はないの? お相手は?
わたし いいえ。
夫人 勿体ないわね。
わたし そんなことないです。今は仕事が大切ですから。
夫人 ここでも仕事をされてはどうですか?
わたし いいんですか?
夫人 構いませんよ。主人の最後の愛弟子さんですもの。
わたし ありがとうございます。じつは締め切り間近の仕事があるのもで、ちょっとあせってたんです。
夫人 思う存分仕事をなさって下さい。ピアノは主人のを使って。
わたし はい。
夫人 よかったら今度わたしにも作曲教えて下さいね。
わたし 鷺沢先生は教えて下さらなかったんですか?
夫人 あの人はわたしの才能を馬鹿にしてたわ。お前には無理だって相手にしてくれなかった。
わたし そうなんですか? なんかイメージと違う。先生とても優しかったから。
夫人 あの人、才能あると認めた人にはとことん優しかった。でもちょっと落ち目になったりすると駄目ね。手のひらを返したように冷たくなるの。
わたし そうなんですか。
夫人 才能の世界がいかに厳しいかってことをわかってたのね。
わたし でも、本当にそれだけなんでしょうか。
夫人 え?
わたし 本当に才能や何かで見捨てたりするものなんでしょうか?
夫人 あの人はそういう人だったのよ。
わたし そんな事ない気がするけど。
夫人 どうして?
わたし 才能やセンスなんてそう簡単に見抜けるものじゃないんです。それに作曲家として勝れていたからといって、審美眼が図抜けているということもないでしょうし。
夫人 あなたはあの人に理解があるのね。
わたし ずっと教わってきましたから。ごちそうさまでした。
夫人 もういいの?
わたし ええ、わたし普段からあまり食べない方なんです。
夫人 ケーキがあるんだけど食べない?
わたし 本当ですか? いただきます。

   夫人、いったん退場してケーキを持ってくる。

夫人 ケーキは好きでしょう?
わたし ええ、大好きです。
夫人 あなたケーキの曲書いてらしたわよね。
わたし ええ、「バースデーケーキ」。子供のためのソナチネの中の一曲です。だから?
夫人 ええ、好きだろうと思って。どんな曲だったかしら。
わたし こんなです(口ずさむ)。
夫人 可愛い曲ね。
わたし ええ。自分でも気に入っています。

   わたし達はケーキを口にする。

夫人 あなたが来るってわかってたから昼間のうちに買って置いたの。
わたし わざわざすみません。
夫人 あなたって本当に美味しそうに食べるわね。
わたし だって本当に美味しいですもん。
夫人 そう。よかった。
わたし 幸せです。
夫人 主人もケーキが好きでね。
わたし ええ、そうでしたね。
夫人 あら、ご存じ?
わたし ええ、何度か食事をご一緒したことがありますし。
夫人 そうだったの。
わたし ええ。
夫人 じゃ、あなたと主人は気が合ったでしょう。
わたし 合いました。
夫人 そう、よかったじゃない。
わたし いい先生に恵まれたと思います。
夫人 あなた主人が好きだった?
わたし え…。
夫人 ううん、そういう意味じゃないの。男女としてでなく好きだったかってこと。
わたし 好きでした。
夫人 そう、もう少し長生きしてくれるとよかったんだけどね。
わたし そうですね。本当に残念です。
夫人 三十年早かったわよね。
わたし はい。

   わたしのケーキをすくう手が止まっていた。

夫人 ごめんなさいね感傷的にさせちゃって。
わたし あ、いいえ。

   二人の会話が絶える。

   暗転。


   リビング

   翌日の午後。
   ソファーが一組置かれ、手前に出版社の桐野が、奥にわたしが腰掛けている。

桐野 これが鷺沢先生の作品のアーカイブになります。
わたし わざわざすみません。
桐野 これまで作曲された曲は262曲になります。
わたし 昨夜、フラグメントをいくつか見つけました。でも遺稿と呼べるようなものはまだ見つかっていません。ピアノの上とか書棚とか探したんですけどね。
桐野 まあ、あせらずじっくり探して下さい。成瀬先生なら何をしても亡くなられた鷺沢先生も許して下さることでしょう。

   夫人が盆を手に入ってくる。

夫人 どうもお構いもしませんで。

   夫人、紅茶の入ったコップをそれぞれの前に並べていく。

桐野 奥さんどうもすみません。
夫人 これが主人のですの?
桐野 ええ、今のところ262曲が登録されています。
夫人 まあ、そんなに。
わたし これからもっと増えると思いますよ。
夫人 そうよね。あなたそのためにいらしたんですもんね。
わたし 全音のピアノ曲集に収録されてるのは6曲でそれが代表作ということになってますけど。いずれもっと凄い作品が見つかるかも知れません。
夫人 全音に入ってるってのは?
わたし 「ピアノのためのレクイエム」、「春の兆し」、「作品1」、「『こころ』より鎌倉」、後はええと…。
桐野 「賀歌」、「組曲『夏』」です。
わたし そうです。その6曲です。
夫人 それは全部、その…。
桐野 ええ、ピアノ曲です。
わたし オケのほうはあまり演奏される機会はないですね。あるとしたら「雅なるもの」、「遠野」、「十二月」、「郷愁」、「水の木」といったところですかね。
夫人 その2曲はわたしも知っています。何度もコンサートで聴きました。
わたし 「雅なるもの」のオーケストレーションはわたしもお手伝いしたんですよ。懐かしい。あの頃まだわたしは大学の一年生で初めて手がけた大きな仕事だったんです。
夫人 そうなの。
桐野 そうですか。
夫人 主人と一緒に仕事が出来る方って本当羨ましいわよね。
わたし あ、でも木管のフレーズにちょっと手を加えた程度ですから。
桐野 ところで先生、新作の方なんですが。
わたし はい。なんでしょう。
桐野 どうです。ピアノソナタを書かれては。
わたし ピアノソナタですか。
桐野 はい。
夫人 ピアノソナタってなんですの?
わたし ピアノ曲の代表的な形式で第一楽章がソナタ形式といって、二つの主題を…。
夫人 もういいわ。わからない。
桐野 どうですか、先生。
わたし 考えてみます。
桐野 悪い仕事ではないと思いますよ。
わたし でもラジオの方もありますし、子供のための曲集も書かなくてはなりませんし。
桐野 締め切りは?
わたし ラジオは来週末までです。まあほとんど出来上がってますけどね。
桐野 じゃ、この機会に是非。
わたし ううん。ピアノソナタか。
桐野 先生ならいいものが出来ますって絶対。
夫人 ねえ、成瀬さん、やってご覧なさいよ。わたしもあなたの曲、聴いてみたいわ。
わたし わかりました。お引き受けします。
夫人 頑張ってね。
わたし はい。
桐野 曲想が浮かびましたら是非ご連絡を。
わたし わかりました。
桐野 では私はこれで。
わたし もう帰られるんですか?
桐野 ええ、仕事があるものですから。
夫人 もうちょっとゆっくりされていかれたらどうですか。そうそう、主人の部屋、ご覧になりたいでしょう?
桐野 いえ、結構ですので。
夫人 そうですか。
桐野 じゃ、先生、よろしくお願いします。
わたし わかりました。
夫人 表までお送りします。
わたし じゃ、わたしも。
桐野 いえ、結構です。
わたし 送りますよ。
桐野 いや先生にそこまでしていただかなくても。
夫人 とにかく送りましょ。成瀬さん。
わたし はい。

   三人退場。

   しばらくして、わたしと夫人の二人が戻ってくる。

夫人 主人が生きていた時も、あの方、よく見えてらしたわ。
わたし ええ、わたしも先生を通して知り合いになりました。
夫人 わたしは音楽のことが全くわかりませんでしたから、同席していても何のことかよくわからなかったけど。
わたし でも少し知識は増えたんじゃないですか?
夫人 駄目ね。わたし興味が持てないことには本当に関心が向かないのよ。
わたし そういう人と何で一緒になったんだろう先生。あ、ごめんなさい。
夫人 いいのよ。巡り合わせ。何かのいたずら。よくあることよ。
わたし 「海のソナタ」。
夫人 え?
わたし 「海のソナタ」ってご存じじゃありません?
夫人 いいえ、聞いたことないわ。
わたし そうですか。先生と話されたときにそういう会話が出ませんでしたか?
夫人 そういうって?
わたし 「海のソナタ」
夫人 初めて聞いた、その言葉。
わたし こうして海辺に家を構えているわけですから、海に関する曲も何曲かあっていいはずなのに先生はそれを書かなかった。
夫人 そうなんですの?
わたし はい一曲もありません。この「海のソナタ」が海に関する最初の作品になるはずだったんじゃないでしょうか。
夫人 そうなの。
わたし はい。
夫人 その「海のソナタ」っていうのはピアノソナタなの?
わたし わかりません。なんの情報もなくて。
夫人 あなたピアノソナタを依頼されたわよね。
わたし え、はい。
夫人 あなたが書いてみたらその「海のソナタ 」というやつを。
わたし え、わたし?
夫人 せっかくモチーフがあるんですもの。ここも海辺ですし、何ですか? インスピレーションっていうやつですか、それにいいんじゃありません?
わたし そうですけど…。
夫人 何か問題が?
わたし いえ、先生が書くはずだったものをわたしなんかが書いていいのかどうか。
夫人 師の亡くなった後、弟子が、補作する例っていうのは多いんじゃありません?
わたし ええそうですけど。
夫人 モーツァルトの「レクイエム」。あれも弟子の、ええと…。
わたし ジュースマイヤーです。
夫人 そのジュースなんとかさんが完成させたんでしょう。
わたし ええ、評判はあまり良くないようですけど。
夫人 書いてみなさいよ。
わたし え、ええ…。
夫人 ね。
わたし はい。
夫人 ピアノは好きに使っていいから。
わたし でもわたしは先生の遺稿の整理に来たものですから。
夫人 そんなの後回しでいいじゃない。誰かが盗むってものでもないでしょう。
わたし ええ、それは。
夫人 作曲しなさいよ。「海のソナタ」。綺麗なタイトルじゃない。
わたし でも人が付けたタイトルでわたしが作曲していいのかどうか。
夫人 妻であるわたしが許します。やってごらんなさい。
わたし はい。わかりました。

   暗転。

   書斎

   わたしは三善晃の「海の日記帳」を弾いている。
   しばらく演奏が続く。

   夫人が入ってくる。

夫人 いい曲じゃない。もう出来たの?
わたし あ、これは違います。三善晃の「海の日記帳」という作品です。参考になるかと思って。
夫人 三善晃?
わたし ええ、有名な作曲家です。鷺沢先生とも交流があったんじゃないですか?
夫人 いいえ、聞いたことないわ。
わたし でもこの楽譜、この部屋に置いてありましたけど。
夫人 楽譜が置いてあるからって知り合いって訳じゃないでしょう? あなたベートーヴェンやバッハとお知り合い?
わたし いえ。
夫人 あの人はね。作曲家仲間からは少し距離を置いていたの。もともと人付き合いの得意な人じゃなかったし、孤高といえば格好がいいけど、そんなたいしたものじゃなくてただ口下手だっただけ。
わたし そうですか。
夫人 見ててわからなかった。
わたし いえ、無口な方だとは思いましたけど。
夫人 休みになるとこの別荘に来て作曲をしていた。わたしもよく付いてきたけれど、とにかく何もないところでしょう。街まで出るのに歩いて5分以上かかるところだし。まわりに別荘はあるけれど特に付き合いらしい付き合いはなかった。あの人書斎にこもるとわたしが入ることも禁じたの。それほど集中してたのね。たまに知り合いが訪ねてくることもあった。年に何回かは、偉い作曲家の先生とか、たまには政治家も見えてらしたわね。でも三善という名前の人は知りません。
わたし わたしこの曲、子供の頃に習って大好きだったんです。さっき見つけて懐かしいなって思って。
夫人 それはピアノソナタなの?
わたし いえ、小品集です。ピアノの。
夫人 そうそれじゃあんまり参考にはならないわね。
わたし でもイメージを高めるにはいいですし。冒頭のイメージは出来たんですよ。いくつか和音を重ねて。こう(弾いてみる)。
夫人 いい感じね。よくわからないけど。
わたし 第一主題はこれです(片手で弾く)。ハ長調。
夫人 そう。とにかく頑張ってね。
わたし はい。
夫人 そろそろ来る頃ね。
わたし え、誰かいらっしゃるんですか?
夫人 あ、話してなかったかしら。義理の息子が来るんです東京から。桐朋学園大の一年生で。
わたし あ、じゃ、わたしと先生の後輩になるわけですね。
夫人 ご存じない?
わたし いえ、鷺沢という学生は…。
夫人 あの子は鷺沢を名乗ってません。松下っていうの。松下隆。
わたし あ、名前は聞いたことあります。指揮科でしたよね。
夫人 そう。隆さんはあの人の先妻の息子でね。別れてからは向こうの奥さんが引き取ったの。その方、四年ほど前に亡くなって。それからしばらくはうちで面倒見てたんですけど、高校入学と同時に独り立ちしたのよね。
わたし それって凄いですね。
夫人 いいえ、隆さんは夫があまり好きじゃなかったのよ。わたしとは気が合ったんだけど。お葬式にも見えなかったでしょう。でもやっぱりお線香ぐらいはあげたいって、今日。(時計を見て)もうそろそろ着く頃ね。
わたし ちょっと散歩してきましょうか?
夫人 いいのよ。気使わなくても。それに先輩後輩じゃない。仲良くやってよ。
わたし はい。
夫人 一週間くらいはここにいるっていうから、和音さん悪いんだけど部屋変わってもらえないかしら。今の部屋、鍵がないでしょう。何かあるといけないから。鍵付きの部屋に移ってくれる。主人の寝室だった所なんだけど。
わたし え、いいんですか。先生の部屋で寝たりして。
夫人 いいのよ。もう使う人もいないんだし。
わたし なんか悪い気がします。
夫人 でも他に部屋はないでしょう。
わたし 二階の一番奥でしたよね。先生の寝室って。
夫人 よくご存じね。
わたし あ、いえ、勘でわかるんですよ。何日も住んでると。
夫人 前にこの家に来たことがあるの?
わたし ありません。
夫人 ふうん。まあいいわ。とにかく移ってね。
わたし わかりました。あの奥さん実は…。

   チャイムの音が鳴る。

夫人 来たみたい。

   夫人出て行く。

わたし(モノローグ) あの部屋なんです。先生と最初に寝たの。

   暗転

   リビング

夫人 成瀬さん、早く早く。
わたし はい。

   わたしがリビングにはいると若い男がいるのが目に入った。先生に似ていい男だった。

夫人 こちら成瀬和音さん。ご存じでしょう?
松下 はい。この前のコンサート聴きましたよ。「夢の中の八月」
わたし そう。ありがとうございます。成瀬です。
松下 松下隆と言います。桐朋学園の後輩です。まだ一年なんですけど。
わたし はい。指揮科でしたよね。
松下 あ、ご存じでしたか。僕のこと。
わたし 名前だけですけど。
松下 あ、そうですか。ええと僕は鷺沢の息子です。母は真樹さんではなくて、もう亡くなっているんですけれど。
わたし ええ、真樹さんから伺っています。
松下 母が亡くなってからは父と真樹さんと何ヶ月か暮らしていたんですけれど父とは折り合いが合わなくて。高校入学と同時に家を出たんです。
夫人 学費は主人が面倒見たんですけどね。
松下 ええ、それで仲は悪かったんですけど、葬式に出ないというのはやはりまずかったかな、と思いまして、今日ここに。
わたし でも一週間ぐらい滞在なさると聞いてますけど。
松下 ええ、真樹さんが誘って下さいまして。
わたし 奥さんが?
松下 はい。

   私は奥さんを見る。奥さんは目をそらした。

松下 せっかく昔過ごした家を訪ねるんだから少しでも一緒に過ごしたらどうかと言われましてね。
わたし あの奥さん…。
夫人 隆さんお線香あげましょう。
松下 はい。

   夫人と松下、退場、やがて鐘の音がする。
   夫人と松下現れる。

わたし (夫人を呼び寄せて)あなたから誘ったんですか?
夫人 ええ、そうよ。
わたし どうしてわたしに何の相談もしてくれなかったんですか。
夫人 だってあなたはいつまでいるかわからないでしょう。隆さんは今日から一週間だけですから我慢してね。(松下に)隆さん。お茶入れますね。
松下 いえ、お構いなく。

   夫人退場。わたしと松下だけが残される。

松下 成瀬さんは父の最後のお弟子さんなんですよね。
わたし はい。そうです。
松下 尊敬してます。
わたし いえ、そんな。
松下 いつか成瀬さんの曲を僕も振ってみたいです。
わたし いえいえ。そんな。
松下 将来有望な作曲家ですからね。
わたし あんまり誉めないで下さい。わたし本気にしますよ。
松下 本気ですよ。僕は。
夫人 (入ってきて松下のセリフを耳にして)あらあらお邪魔だったかしら。
わたし いえ、そういう話じゃないんで。
夫人 席外しますね。
わたし 違いますから。
夫人 隆さん、この方気に入った。
松下 はい。でも今はそういう話じゃないんです。
夫人 そう(お茶を配る)。
松下 ありがとう。
わたし どうも。
夫人 お菓子も持って来ましょうね。

   夫人退場。

わたし どなたに付かれているんですか?
松下 小澤先生です。あとピヒラー先生にもピアノを教わっています。
わたし そうですか。どうして桐朋を選ばれたんですか?
松下 本当は芸大に行きたかったですけどね。入れなかったんで。
わたし でもお父様とはあまり仲が良くなかったんでしょう。
松下 親父に教わる訳じゃないですからね。もし親父に教わることになったらそれはそれでしかたないかなと思いました。結局教わることはなかったわけですけれど。
わたし 松下君、君づけでいいかな。
松下 ええ。
わたし 松下君は作曲はしないの?
松下 あまり好きじゃないからな。人の曲を振ってる方が好きです。成瀬さんは作曲が好きなんでしょう。
わたし ええ、大好きです。心の底から好きです。
夫人 (入ってきて)あらごめんなさい。あとはお若い二人で。
わたし 奥さん違いますよ。そんなんじゃないです。
夫人 でも告白してませんでした?
わたし 作曲が好きだという話です。
松下 真樹さん、お見合いしてる訳じゃないんですから。
わたし 勘違いです。
夫人 そう。これ貰い物なんですけど。カステラ。美味しいのよ。
わたし ありがとうございます。
松下 これあれじゃない。毎年家に送ってくる奴じゃない。
夫人 そうだけど。お嫌い?
松下 いえ、食べますけど。

   しばらく三人でカステラを食べる。

夫人 隆さんは将来は留学されるの?
松下 ええ、いちおうドイツを考えてますけど。
夫人 ドイツのどちら?
松下 ベルリンかライプツィッヒかドレスデンかまだ決めてないんですけど。
夫人 そう。
松下 成瀬さんは留学の経験は?
わたし ないんです。ドイツ語が苦手で。
松下 え、でも行けば何とかなりますよ。
わたし いいですわたしはずっと国内で。仕事も入ってきますし。
松下 今は世界のどこにいたって作曲できる時代ですよ。
わたし わたしは日本がいいです。
夫人 そうよね。日本が一番よね。
松下 でも世界に出れば見聞も広まりますし。
わたし 留学すればいいってもんでもないでしょう。知り合いがパリに留学しましたけど結局駄目で今は全然関係ない職業に就いています。
松下 でも世界を知った方がいいですよ。成瀬さん失礼ですけどお幾つですか?
わたし 24です。
松下 26までに世界を知っておいた方がいいです。
夫人 その26ってのはどこから来てるの?
松下 いえ、特に根拠はありませんが。
わたし あと二年か難しいな。仕事も決まってるんですよ。二年先までは。
夫人 それって凄い事じゃない?
わたし え、いや別に。
松下 凄いことですよ。
夫人 そうよね。
わたし いえ、それほどのものでは…。
夫人 それほどのものよ。
わたし え。

   松下、肯く。

夫人 ね。
わたし …ええ、それほどのものです。
夫人 凄いわ。さすが主人が可愛がったお弟子さん。容姿も魅力的だし。ね。隆さん。
松下 ええ。
夫人 ねえ、いい話ないの? 
わたし ええ、今は。
夫人 勿体ないわ。主人もわたしじゃなくてあなたと結婚すれば良かったのに。
わたし え?
夫人 いいえ、何でもないの。聞き流して頂戴。
松下 (急に)成瀬さん。
わたし はい。
松下 ベートーヴェンのシンフォニーは弾けますか。
わたし リスト編曲のやつでしたら。
夫人 あらあんな難しいのお弾きになれるの?
わたし ご存じなんですか?
夫人 あ、いや、ちょっとね。
松下 今、ちょっと第一番のシンフォニーを勉強しはじめたばかりなんですよ。どうでしょう。僕の指揮に合わせて弾いてみていただけませんか。
夫人 まあ凄い。滝廉太郎みたい。
わたし え、よくご存じですね。滝廉太郎のデビューがベートーヴェンの一番だったなんて。
夫人 あら、いやだ。いくら音痴だからってそれぐらいは知ってますよ。有名ですもんね。
松下 はい。
わたし そうですか?
松下 有名です。どうですか。今からでも。
わたし え、今から?
松下 ええ。
わたし でも来たばかりでお疲れじゃない?
松下 いいえ。成瀬さんのような方にお会いできると聞いて飛んできたんですよ。出来れば早くお手合わせ。
夫人 わたしもご一緒します。
わたし え、真樹さんもですか?
夫人 お邪魔かしら?
松下 いや、ちょっとそれは…。
夫人 あらどうして? あ、そうね。ごめんなさい、気が付かなくて。
わたし え、何に気が付いたんですか?
夫人 いや、そこまで言わなくても。じゃ、わたしは下にいますから。あ、これ片づけますね。

   夫人、退場。

わたし あの人、勘違いしてません。
松下 あれはあれでいいんです。昔からああいう人でしたから。
わたし でも普通常識では…。
松下 僕ら芸術家には常識なんてどうでもいいんです。
わたし でも真樹さんは芸術家じゃないから。
松下 あ、そうでしたね。
わたし 真樹さんてどういう人なんだかよくわからないんです。ここに来た時はいつもいないから。
松下 ここに来た時? 成瀬さん、いらっしゃったことがあるんですか?
わたし あ、中国から来た朱鷺、名前なんていったっけ?
松下 誤魔化さないで下さい。
わたし 誤魔化してないよ。
松下 言いにくいことなんですね。
わたし 余計な詮索はしないこと。いい? 後輩君。
松下 ちぇ、いきなり先輩面かよ。
わたし 何て言った?
松下 いえ、いいですよ、別に。それより早くやりましょう。タクトも持ってきてるんです。(取り出す)
わたし 用意がいいわね。
松下 ええ、いつも持ち歩いてます。

   松下はワーグナーを口ずさみながら、タクトを振り回す。

わたし 当たる、危ない。
松下 ああ、失礼。
わたし 松下君、ちょっと訊いていいかな。
松下 何ですか?
わたし そんなことして恥ずかしくない?
松下 え?

   暗転。

   そうしてわたし達は先生の書斎に向かった。わたしはピアノの前に腰を下ろし、松下はタクトを持ってわたしの正面に立った。
   松下はタクトを振り下ろすがそれは余りに下手だった。

   書斎

松下 (わたしがピアノを弾かなかったので)え? 成瀬さん?
わたし どこで音を出したらいいのかわからない。
松下 え、だから振り下ろしたら…。
わたし いきなり振り下ろされてもわからないじゃない。あなた本当に指揮を習ってるの?
松下 ええ、小澤征爾先生に。
わたし 本当?
松下 でも小澤先生はずっとウィーンで、まだ一度もレッスンを受けたことはないんですけどね。
わたし え、じゃ何を勉強してるの?
松下 ですから楽譜の読み方とか。
わたし そういうのは指揮を習ってるとは言わないんじゃないの?
松下 え、ええ、そうかも知れませんが。
わたし オケを振ったことは?
松下 まだ一度も。でも才能は認められてるんですよ。大学じゃフルトヴェングラーって呼ばれてるんです。
わたし それ「振ると面食らう」じゃないの? そもそもフルトヴェングラーは指揮が下手で有名だったんだから、決して誉め言葉じゃないわ。
松下 そうなんですか。てっきり…。
わたし 松下君、読書してないでしょ。
松下 ええ。
わたし 勉強も苦手なタイプ?
松下 いえ、勉強は得意でした。
わたし そう、残念ね。
松下 はい?
わたし 何でもない、こっちの話。いい、棒を振り下ろす前に息を吸って合図をするの。そうすればピタリと合うから。
松下 はい。(少し考えて)はい。

    松下、タクトを振り下ろす。ベートーヴェン交響曲第一番冒頭の和音が鳴る。

松下 やった。合った。
わたし そこで止めちゃ駄目。続けなきゃ。
松下 はい。

   いつの間にか夫人が部屋にいる。

夫人 間抜けな響き。
わたし 真樹さん、いつの間に?
夫人 いや、どんな凄い音がするのかと思ったら変な音ね。ベートーヴェンってこんなにダサイ作曲家だったの?
松下 いや、これから良くなるんですよ。これはほんの序奏で。
わたし そうです。それにダサイは死語ですよ。
夫人 何て言うの今は? イケテナイ?
松下 真樹さん、無理して若者言葉を使わなくてもいいです。
わたし 二人きりにさせて貰えませんか?
夫人 そうでした。じゃお二人でお熱い夜を。

   夫人退場。

わたし やっぱりあの人勘違いしてる。
松下 いいんですよ。勘違いさせておきましょう。別に害はありませんよ。じゃ始めましょう。

   ベートーヴェン交響曲第一番が鳴り響く。

松下 もうちょっとテンポを上げてみましょうか。古楽器風に。
わたし これ以上上げると不自然になるわよ。
松下 え、そうかなあ?
わたし 松下君は客観的に自分の音楽を聴いたことがないから。わからなくなるの。ちょっと録音してみましょう。

   わたしは録音用のMDを探しに行きかけて、

わたし ねえ、松下君。
松下 はい。
わたし 「海のソナタ」って知ってる?
松下 いえ、「海の交響曲」なら知ってますけど。
わたし。 そ。知らなくて当然か。
松下 何か?
わたし ん? 先生のMDに「海のソナタ」って書かれたのがあったの。てっきり新作かと思ったら何も録音されてなかった。
松下 え、どれです?
わたし ちょっとまって、ええと、これ。何も入ってないからこれに録音しちゃいましょ。
松下 見せて下さい。あれ、これ録音されてますよ。
わたし え?
松下 ここ、色が変わってるでしょ? ここまでは音が入っています。かけてみましょう。

   松下はMDをセットし、再生ボタンを押す。

わたし 何も聞こえないわ。
松下 え?
わたし 何?
松下 聞こえないんですか? 聞こえるでしょ? 波の音。
わたし 波?

   わたしはスピーカーに耳を近づけ、音量を上げる。
   しかしわたしには何も聞こえない。

わたし 聞こえないわ。
松下 そんなはずは。
わたし 嘘でしょ。波の音が入ってるなんて嘘でしょ?
松下 聞こえますよ。波の音が。
わたし え、わたしの耳がどうかしてるのかな? 真樹さん呼んで貰えます?
松下 はい。

  松下、退場。
  わたしはスピーカーに耳を当て、音を読み取ろうとするが何も聞こえない。

  夫人と松下が入ってくる。

松下 成瀬さん。
わたし あ。奥さん、何か聞こえます?
夫人 ええ。波の音でしょう。
わたし そんな。
夫人 どうかしたの?
松下 成瀬さんが何も聞こえないっていうんです。
夫人 突発性難聴?
わたし いえ、他の音は聞こえるんです。このMDの音だけが聞こえなくて。
夫人 あなた絶対音感は?
わたし あります。
夫人 変ね。それほど耳のいい人が波の音を聴けないなんて。

   わたしは耳をふさぐ。鼓動の音がした。

わたし 耳鼻科に行った方がいいでしょうか?
夫人 あら、音がやんだわ。
わたし え?
松下 ここまでしか録音されてなかったんでしょう。
わたし もう一度最初からかけてみます。
松下 成瀬さん、やめた方がいいですよ。
わたし でも。

   スタートボタンを押した。しかしわたしには波の音は聞こえない。

わたし どうしたんだろう…。

   松下がストップボタンを押した。

松下 成瀬さん、それより僕の音楽を録音しないと。ねえ。
わたし ええ…、ええそうね。
松下 真樹さん、ありがとうございました。
夫人 いいえ。成瀬さん、きっと音の波長があなたの耳に合わなかっただけよ。気になさらないで。
わたし はい。

   夫人、退場。

松下 成瀬さん、始めましょう。
わたし うん。

   わたしは音の入っていないMDを探し出し、マイクをコードに繋いでコンポにセットした。

松下 準備はいいですか?
わたし ええ。

   交響曲が鳴り響く。そのまま第一楽章をノンストップで演奏。

松下 どうです?
わたし やっぱり振りがまだ甘いわ。
松下 そうですか。
わたし うん、音楽も一本調子になってる。
松下 一本調子。
わたし 例えば第一主題。ダーン、ダ、ダーン、ダ、ダダダダ、ダダダダ、ダッ、ダッ、ダッ、ダッ、ダ。だけど。これは最初に力を入れすぎ(ピアノで弾いてみる)。こうじゃなくて、もっとしなやかに(ピアノで示す)。ね。
松下 はい、じゃ、もう一度。
わたし わかった。

   再び、第一主題のみを弾く。

わたし そうじゃない。
松下 すみません。
わたし 今度はテヌートし過ぎで甘口過ぎる。これじゃムードミュージックよ。
松下 でも音を出してるのは和音さんなわけで。
わたし 気安く下の名前で呼ばないで。それにわたしはあなたの指示通り弾いてるだけなんだから。
松下 ごめん。成瀬。
わたし どうして今度は呼び捨てなの?
松下 いや、ちょっと気が動転して。
わたし わたし達まだ知り合ったばっかりなんだから。
松下 すみません。じゃもう一度。
わたし 今日はこれぐらいにしない。
松下 いや僕は大丈夫ですよ。
わたし わたしの方が疲れたの。それにあんまり長いと真樹さんに迷惑だし。
松下 そうですか。そうですね。じゃ、また明日。
わたし ええ。
松下 お疲れ様でした。
わたし お疲れ様。
松下 でも成瀬さんのような何というのか、ええ、何というのか美しいじゃなくてそれ以上の、ええ、何と言えばいいのだろう。華やかでもなくて、ええと綺麗で、あの、何かいい言葉ありませんか。
わたし え、急に言われても…。
松下 何かあるでしょう。誉め言葉が、最上級の。
わたし ええと…、絶世の美女?
松下 それは誉めすぎです。
わたし ああそう。ええと。
松下 ううん。
わたし あ!
松下 え?
わたし 一顧傾城。
松下 (肯いて)一顧傾城。
わたし ありがとうございます。
松下 でも一顧傾城って誉め言葉でしたっけ?
わたし 違います?
松下 どうでもいいです。一顧傾城の方に教えて頂いて光栄です。
わたし わたしこそあなたのような…。
松下 イケメン?
わたし それはちょっと自惚れだけど、お役に立てて良かった。
松下 ありがとうございます。じゃ。
わたし ええ。

    松下退場。
   わたしはピアノの前で一つため息をつき、書斎から出る。キッチンに行き、レモネードを入れて、わたしは書斎に戻る。そしてまたため息をつき、レモネードを一口飲むとMDボックスの中から適当に一枚出してプレーヤーにかける。しかし聞こえてきた音にわたしははっとした。それは鷺沢の生前の声だった。

鷺沢の声 「海が聞こえる。絶え間なき潮。わたしは飲み込まれる。この四肢が、私の才能が。飲み込まれて行く。最早抵抗は出来ない。出たい。ここから出たい。この盲目の海底から。だがもがく腕は水をかき回し、叫ぶ舌はなめし革と化す。私は敗れた。最早力も出ない。この声は誰にも届かない。」
   
わたし 先生…。

   暗転。



2,白鯨

   リビング

   桐野がやってきた。わたしの仕事の進捗具合を確かめに来たらしいのだが、わたしがまだ一音符も書いていないことを知ると、彼は失望したようだった。

桐野 先生、お願いしますよ。言われたらすぐ取りかかるのがあなたの取り柄なのに。
わたし それ以外に取り柄がないみたいね。
桐野 いえ、そういうわけではないですが。
わたし 先生の遺作の整理で忙しかったんです。作曲までは手が回りませんでした。
桐野 でも他の曲はちゃんと送っているんでしょう?
わたし 誰に聞いたんですか?
桐野 谷崎さんです。ここに着いて三日後にはファックスで譜面を送ったらしいじゃないですか。どうしてうちだけ。
わたし 難しいんです。ピアノソナタなんて初めてだし。
桐野 でも学部時代にピアノ曲を何曲も書かれたあなただ。ピアノソナタぐらいわけないはずだ。いいですか二週間ですよ。

   松下が入ってくる。

松下 いいじゃないですか。誰だって調子の悪いときぐらいあるんですから。
桐野 これはこれは隆さん。休暇ですか。
松下 ええ、そんなものです。
わたし 一週間だって言ってたのに、ずっと居座ってるんですよ。
松下 成瀬さん、そういういい方はないでしょう。
わたし でも一週間だって言うから…。
松下 成瀬さん、ここはあなたの家じゃないんですよ。あなただった遺作の整理だ何だとかいって居続けてるじゃないですか。朝から晩までピアノを弾いてるし。あれじゃ、真樹さんだって迷惑でしょうに。
わたし (喧嘩腰で)わたしのことより自分のことを考えたら?
松下 何ですって?
桐野 いや、お二人とも冷静になって。
わたし 冷静ですよ。
松下 僕は生まれてから一度だって怒ったことはありません。
桐野 でも今…。

   夫人がお茶を持って入ってくる。

夫人 お待たせしました。(場の空気を察して)はい?
わたし 何でもありません。
桐野 奥さんどうもすみません。
夫人 あ、隆さんの分も持って来ますね。
松下 いいですよ。
夫人 いいのよ。ついでにわたしのも持ってくるんだから。
松下 え、何でです?

   それには応えず、夫人は退場。

わたし 一曲書くのに何年もかかる場合があるんです。ブラームスの例だって知ってるでしょ?
桐野 でも成瀬さん、一音符も書いてないっていうのはどういうことですか? うちを馬鹿にしてるんですか?
わたし まだ譜面に書き起こしてないだけです。頭の中では出来上がっています。
桐野 じゃあ、早く書き出して下さいよ。年内には仕上げて貰いたいんです。
わたし あと二週間しかないじゃないですか、そんなの無理ですよ。
桐野 いいえ、何としても書き上げて貰います。二月号の巻末にはあなたの新作が載るこのはもう決定してるんです。
わたし 他の曲じゃ駄目ですか? ピアノソナタじゃなくて。
桐野 ピアノソナタを書いて貰います。もう決定済みですから。
松下 桐野さん、無茶ですよ。この人、全然書いてないんですから。一日中、書斎に籠もってラヴェルだのプーランクだの自分の好きな曲を弾いてるだけなんです。作曲している気配すらない。
わたし あなたが寝たあとにやってるの。
松下 じゃ何で一音符も書けてないんですか?
わたし だから頭の中では…。
松下 それは嘘ですね。

   夫人が入ってくる。

夫人 はい、紅茶。ミルクとレモン入りね。
わたし え、両方入れちゃったんですか?
夫人 いけない?
わたし いけなくはないですけれど普通どちらか片方しか入れませんよ。ねえ。
松下 ええ。
夫人 そうなの?
桐野 まあ、普通はね。
夫人 普通なんて観念はこの世には存在しないの。存在するのは本物か偽物だけ。わたし達芸術家は普通なんて言葉に惑わされちゃいけません。
わたし でもミルクレモンティーなんていうのは完全に偽物ですよ。それに真樹さんは芸術家じゃないじゃありませんか。
夫人 (飲んで)ああ、おいしい。これこそ本物だわ。鷺沢真樹、違いを知る女。ダバダー。(隆に)あなたもいかが?
松下 遠慮しておきます。
夫人 そう。で、今日は何のお話?
桐野 事態を把握してないんですか?
夫人 え、桐野さん、遊ぶにいらしたんでしょう?
桐野 遊びじゃありません、仕事ですよ仕事。
夫人 何のお仕事?
桐野 作曲の依頼です。
夫人 和音さん、書けてないの?
わたし ええ…。
夫人 書けないなら書かなければいいじゃないですか。
桐野 そうはいきません。私は先生の行く末を心配してですね…。
夫人 あなた、和音さんに気があるの?
桐野 どうしてですか?
夫人 いえ、まあ、何となく。
桐野 本当に世間ズレしてない方というのは…
夫人 何?
桐野 何でもありません。でも成瀬先生は今が一番大事な時なんです。名前も売れてきて、波に乗るチャンスなんです。それをみすみす逃すなんて事は…。
夫人 チャンスなんていくらだってきますよ。主人だって27で病気をした時はこれでもう駄目だなんて言われたものですが、ちゃんと生き残って、「ピアノのためのレクイエム」で復活しましたよ。
桐野 鷺沢先生は恵まれていた方ですよ。それにあの頃と今とでは状況が違う。今作曲界で生き残るのは大変なんです。昔は女流と言うだけでチヤホヤされたものですが、最近の作曲賞の上位入賞者を見てご覧なさい。ほとんどが女性です。女であるということは武器にならないんです。
夫人 男女平等、いいことじゃないですか。
桐野 奥さん…。
わたし いいです。わたし書きますから。必ずいい物、書きますから。
桐野 お願いしますよ。
松下 成瀬さん、断るなら今のうちですよ。
わたし どうしてわたしが断らなきゃならないの?
夫人 わたしはクリスマスの飾り付けがあるのでこれで。

   夫人、退場。

桐野 あの人もわからない人ですね。とにかく先生、仕事を急いで下さい。お願いします。
わたし わかりました。
桐野 じゃ、私はこれで。(奥に)奥さん、失礼しました。
わたし お気をつけて。

   桐野退場。

   わたしはため息をついてソファーに座り込んだ。

松下 成瀬さん、大丈夫ですか。
わたし 大丈夫よ。これでも注目されてる新進の作曲家よ。見くびらないで。
松下 成瀬さん、お疲れでしょう。毎日何時間もピアノを弾いてらっしゃる。それでいてご自分の曲は一音も出てこない。
わたし だから言ったでしょ。頭の中では出来てるの。
松下 どんな曲です?
わたし Cメジャー。冒頭では微かに和音が鳴り響くの、それが徐々に徐々に高鳴っていって、第一主題、海のテーマ。こうよ。タン、タラララ、タララララ。ミ、ファミレドレソソレミ…。
松下 それから先は?
わたし それが徐々に変奏されて。
松下 それで?
わたし それで、それで…。
松下 それで?
わたし だから…。
松下 出来てないんですね。

   間。

わたし あの時からよ。あなたと真樹さんが波の音がするといって、わたしだけがそれを聴き取ることが出来なかった時。あの時から筆が進まなくなった。
松下 ……どうして?
わたし よくわからない。他の曲は書けてるのよ。新しく入った仕事だってこなせてる。
でも「海のソナタ」だけはどうしても書けないの。
松下 なら話は簡単だ。「海のソナタ」の完成は諦めるんです。そして別のピアノソナタを今から書けばいい。
わたし え?
松下 理屈から言えばそうでしょう。あなたが書けないのは「海のソナタ」なんです。例えば「山の交響曲」ならあなたは書けるはずだ。別に根拠はないですけどね。親父が言ってたことがあります。海のそばで仕事をしていると時折、ふと波の音が聞こえなくなることがあるそうです。そういう時は、何だか自分が海の底に引き込まれそうな恐怖を感じたそうですよ。あなたも今そんな感じなんじゃないですか?
わたし 海が怖いって事はない。人間は海からやって来たんだから。そうでしょ?
松下 だからこそ人は海を恐れるんじゃないですか? 故郷を恐れる人がいるように。
わたし あなたのいうこと、よくわからないわ。
松下 ええ、僕にもよくわかりませんよ。
わたし とにかく「海のソナタは」完成させます。意地でも。それが先生がわたしに与えた使命のような気がして。
松下 使命なんてものはありませんよ。それは幻想です。
わたし そうかも知れないけれど…。

   暗転。

   リビング

   闇の中、坂本龍一の「戦場のメリークリスマス」が流れる。
   明かりが着くと、ハゲヅラを被った松下が立っている。

松下 (ビートたけしの真似をして)「メリークリスマス。メリークリスマス、ミスターー・ローレンス」。どうです似てますか?
夫人 うーん、イマイチね。どう、和音さん?
わたし わたしは映画を見たことがないんで、よくわからないです。
松下 (カツラを取って)似てると思うんだけどなあ。
夫人 顔がビートたけしに似てないから駄目よ。
松下 それを言われると辛いなあ。僕みたいないい男は…。
わたし 誰もいい男なんて言ってないでしょう。
夫人 でも隆さんいい男よ。そうでしょう?
わたし ええ、まあどちらかといえば…。
夫人 どちらかと言わなくてもいい男よねえ。
松下 はい。顔には自信があります。
わたし じゃ、いい男なんでしょう。わたしにはよくわからないけど。
夫人 お似合いだと思うけどなあ、二人。
わたし はい?
夫人 美男美女でいいと思うんだけどなあ。
松下 そうですね。
わたし ちょっと待って下さい。何ですか、急に。
夫人 和音さん、隆君のこと嫌い?
わたし 嫌いではないですけど…。
夫人 ね、わたしもお似合いだと思うんだけど。
わたし でも今はわたしも仕事のことで精一杯で恋愛のことまでは気が回らないというか…。
夫人 そう、残念ね。
わたし ええ…、ディナーにしませんか? 隆さんの一発芸も終わったことですし。
松下 いや一発芸ではないんですけどね。
わたし ディナーにしましょうよ。チキンも焼けた頃でしょうし。
夫人 じゃ、わたし持って来るわね。

   夫人退場。

松下 成瀬さんはやられないんですか? 一発芸は。
わたし わたしはそういうのは苦手で。
松下 やって下さいよ。僕だってやったんですから。
わたし 遠慮しときます。
松下 (再びカツラを被って)馬鹿みたいだな、俺。
わたし 確かにあんまり面白くなかった。
松下 ひどいなあ。
わたし (笑う)。

   夫人が入ってくる。

夫人 はい、チキンよ。
松下 僕は遠慮しておきます。
夫人 あらどうして?
松下 鶏肉アレルギーなんです、僕。
夫人 え、初めて知った。
松下 ええ、誰にも話してませんからね。
夫人 じゃ、どうする? 和音さんは召し上がるわよね。
わたし はい。好物ですから。先生も確かそうでしたよね。
夫人 よくご存じね。
わたし え? いや。まあ。あ、頂きます。
夫人 なんか、隆さんだけ食べられないってのも可哀相ね。
松下 いえ、お構いなく。

   わたしと真樹さんはチキンを食べる。隆さんはそれをじっと見ている。

夫人 やっぱり可哀相よ。
松下 本当にいいですから。
わたし 他に食べるものはないんですか?
夫人 ケーキがあるけど、あれはこのあと三人で食べることにしてるから。
松下 いいですって。あ、僕、一発芸やりますね。(立ち上がって)まずはカラヤンの真似、目をつぶってですね、「ニヒト、テヌート、テヌート」。

   無反応。

松下 いや、大学では結構受けるんですけどね。
夫人 わたしはカラヤンをよく知らないから。
わたし わたしも小学生の頃にはもう亡くなってたし。
松下 いや、自分で言うのもなんですけれど本当に似てるんですよ。見たことありません?「グレート・コンダクター」とか「カラヤン・レジェンド」とかで。
わたし ごめんなさい。
松下 あ、じゃバーンスタインの物真似。これなら誰にでもわかります。

  松下、飛び上がって指揮をする。

夫人 隆さん、ちょっと埃が飛び散ります。
松下 ああ、すみません。じゃ今度は小澤先生の真似を、ええとですね。ノンタクトで空中の一点を見つめてですね。こういう髪型でですね。

   松下、どこからか、小澤の髪型のカツラを取り出す。

わたし 隆さんごめんなさい。もういいです。
松下 ああ、じゃ、大人しくしてます。

   何となく気詰まりである。

夫人 ケーキにしましょう。ケーキ、ケーキ。

   夫人退場。

松下 成瀬さん、すみません、場を白けさせてしまったようで。
わたし そうね。
松下 え?
わたし いえ、冗談。
松下 成瀬さん、お願いしますよ。
わたし でもわたし、隆君のそういうところ好きよ。
松下 え?
わたし あ、好きって言っても、あなたが感じてるようなものじゃないから勘違いしないでね。
松下 成瀬さん、真樹さんに聞かれたらまた変なことになりますよ。
わたし そうね。じゃ、黙ってましょう。

   夫人が入ってくる。

夫人 はい、じゃ、明かり消してくれる。
松下 え、どうしてです。
夫人 ローソク灯さないと。
松下 ああそうですね。(明かりを落とす)
夫人 ねえ、キリストって何歳で死んだの?
わたし いやちょっとわからないですね。
松下 僕も。でも何でです?
夫人 キリストの歳の数だけローソク灯さないといけないでしょう?
松下 いやそういうことはないんじゃないですか。
わたし そうですよ。これはクリスマスであって誕生日パーティーじゃないんですから。
夫人 あら、そうだったかしら。
わたし そうですよ。明かりを落とさなくてもねえ、点けて。

   松下は明かりを点けない。その間、夫人は「オー・ホーリー・ナイト」を歌いながら、次々とローソクに灯を灯す。

わたし 隆さん?
松下 いいじゃないですか。いい雰囲気じゃないですか。このままにしておきましょう。夫人 そうよ。雰囲気が一番。
わたし ……ええ。
夫人 ねえ、こんな話知ってる。昔々、太平洋の真ん中に一頭の白い鯨がいました。その鯨はメスだったんだけど。黒い鯨の群れの中で一頭だけ真っ白だったもんだから、オスの鯨にもてもてだったのね。もちろん他のメス鯨たちはそれを良く思わない。で、ある日みんなでよってたかってその白鯨をいじめたわけなの。白鯨は自分が目立つ存在だからいけないんだと思ってその群れを離れることにしたの。同じ白鯨の仲間を見つけてそこで生きようとしたのね。でも同じ白い鯨の群れを見つけることがどうしても出来ない。それでその白鯨は元の群れに戻るしかなくて、なるべく目立たないように目立たないようにして生きたの。
松下 日焼けして黒くなったんですか?
夫人 冗談はやめて。その白鯨はね。メスの仲間から何をされようと耐えたの。白い鯨には歌の才能があったんだけど、ある時からパッタリと歌わなくなってしまったの。そんなある日、群れに一頭の鯨が迷い込んだ。とても魅力的な鯨でね。メス達はその鯨を何とか自分のものにしようと躍起になったんだけど、その鯨が愛したのは例の白鯨だけだったのね。白鯨はいじめが一段と酷くなるのを恐れて、その魅力的なオス鯨と二頭で駆け落ちしようということになったの。でもオス鯨はそれを認めなかった。結局、白鯨は以前よりも更に地味で目立たないようになっていった。
ある時、もてもてのオス鯨が群れを離れて、どこかよその海へと出かけていったの。白鯨は一人にされちゃ堪らないと思って、オス鯨のあとをつけたのね。そしたらオス鯨は自分とは別のメスの白鯨を愛するようになっていることをしったのね。それでその白鯨はどうしたと思う?
松下 白鯨同士喧嘩した。
夫人 いいえ、白鯨はそのオス鯨ともう一頭の白鯨との交際を許したの。自分を犠牲にしてね。ねえ、この話、どう思う?
松下 いや、どう思うと言われてもね。ただ悲しい話だとしか。
夫人 悲しい話だと思う? ねえ、和音さん?
わたし え、ええ…。
夫人 悲しい話でしょ。
わたし 悲しい話ですね。
夫人 あなた、わたしから主人を奪ったことで気がとがめなかった。
わたし え?
夫人 わたしが何にも知らないとでも思った?
わたし ………。
夫人 いいわ。いいのよ、こんな話どうでも。忘れてケーキを食べましょう。

  夫人、ローソクを吹き消す。
  一瞬にして舞台は闇に包まれる。


   3,鱈岬

   書斎
 
   わたしは、書棚に置かれた先生の在りし日のポートレートを手にとって眺めていた。
   いつの間に入ってきたのか、後ろから隆さんの声がした。

松下 親父のこと忘れられないんですね。
わたし ノックしてって言ったでしょう。
松下 死んだ人間のことをいつまで思っていても無駄ですよ。
わたし そんなんじゃないわ。
松下 (トロフィーを手にして)偉大な父親を持つというのもなんか嫌な感じでね。
わたし あなたは先生のこと嫌い?
松下 そんなことありませんよ。
わたし でも、真樹さんは…。
松下 嫌いというわけじゃない。でも父の存在は僕には大きすぎてね。芸大を受けたのも
そのためですよ。父を超えたかった。学歴だけでもね。
わたし そう。
松下 成瀬さんのお父さんはどんな人でした?
わたし 中学校の国語の先生。若い頃は小説家希望だったみたいなんだけどね。優しい人よ。とてもいい人だった。わたしが高校生の頃に死んじゃったんだけどね。
松下 あなたが音楽家を志したのは、そのお父さんのため?
わたし ううん。母親の希望。母はね。音楽に関してはとても厳しい人だった。普段は優しいんだけどね。中学の音楽の先生でね。まあ、職場結婚ね。
松下 あなたはお母さんの夢を叶えたんだ。親孝行ですね。
わたし そういうんじゃないと思うけど。別に母親に強要されたわけでもないし、わたしはわたし自身が音楽家になりたかったの。それだけ。
松下 父を愛したのは、お父さんの面影を求めてですか?
わたし そういうことを人に聞くもんじゃないわ。学校で習わなかった? 僕。仕事の邪魔だから出て行ってくれない?
松下 作曲は進んでるんですか?
わたし 進んでるわよ。
松下 聴かせてくれませんか? 出来たところまででいいですから。

   間。その間に隆さんは椅子に腰を下ろした。わたしは覚悟を決めてピアノに向かった。
   「海のソナタ」ハ長調 第一楽章。低音の和音が鳴り響き、それに応えるように高音が煌めく。やがてハ長調の第一主題が現れる。ミ、ファミレドレソソレミ。その主題が変奏されていく。時に明るく、時に深海を思わせるように暗く重く、時に風のように軽やかに、カモメの鳴き声、汀のざわめき、人魚の歌。第一楽章が終わる。

松下 素晴らしいです。傑作といってもいい。
わたし あなたにわかるの?
松下 馬鹿にしないで下さいよ。これでも音楽家ですから。
わたし そう、ありがとう。
松下 もうちょっと喜んで貰いたいなあ。せっかく誉めてあげたんだから。
わたし 本音で誉めたんじゃないってこと?
松下 どうしてそう思うんです? もっと自分に自信を持って下さいよ。
わたし 自信はあるわよ。自信がなきゃこんな仕事やってられない。「音楽は素晴らしい。でもそれを仕事にすることは怖ろしい」。ええと…。
松下 ジョルジュ・ビゼー。
わたし そう。
松下 和音さん。
わたし 下の名前で呼ばないで。
松下 和音。
わたし どうして呼び捨てになるの。
松下 俺とお前と上手くやっていけないかな?
わたし どうしたの突然? 酔ってるの? 酔ってるのね。
松下 俺は君のピアノに酔ったんだ。
わたし 何それ? 下手な殺し文句。
松下 ええと…。好きです。

   隆はわたしに抱きつこうとした。わたしはそれをはねのける。

わたし 何なの急に?
松下 僕じゃ不満ですか?
わたし 不満も何もわたし達そんな関係じゃないでしょう。
松下 あなたはそんな関係じゃなくても僕はそんな関係です。
わたし 意味がわからない。
松下 意味なんてどうだっていいんです。
わたし 理屈になってない。
松下 理屈なんて犬に食われろです。

   わたし達は互いを牽制しながらピアノのまわりをグルグル回る。

松下 和音、好きだー。
わたし だから呼び捨てにしないで。
松下 和音。
わたし やめて。

   わたしは隆を跳ね飛ばす。
   隆は壁に頭をぶつける。
   ドアを開けて夫人が入ってくる。

夫人 (松下に)才能ないわね。あなた。
わたし 真樹さん。
夫人 不器用なんだから。任せておけないわ。
わたし え? どういうことですか?
夫人 (わたしに)鈍いのね。あなたも。もっと聡明な人かと思ってたけど。
わたし え?
夫人 もういいわ。隆さん。出て行って。

   隆、立ち上がる。

夫人 早く出て行って。

   隆、出て行く。

わたし 真樹さん。
夫人 頭悪いのね。
わたし え?
夫人 いえ、別に。
わたし ひょっとしてあなたが?
夫人 そうよ。
わたし どうして
夫人 わかってるでしょう?
わたし わたしと先生のことですか。
夫人 そうよ。本当はあなたとは顔を合わせたくなかった。
わたし じゃ、どうしてわたしをここに呼んだんですか? 先生との思い出の場所に。
夫人 仕方ないじゃない。主人の遺稿を整理できるのはあなたしかいなかったんだから。
でもそれはチャンスだと思ったの。ここなら、あの子とあなたを引き合わせることができる。不自然でなく。
わたし 不自然でした。
夫人 でもあなたの家にあの子が突然押しかけてくるよりは自然でしょう。
わたし ……。
夫人 いい? 早く作曲を終えてこの家を出て行って。
わたし 最初からそのつもりだったんですか?
夫人 そうよ。あなたとあの子を会わせるため。
わたし じゃあ、もうこの家にわたしがいる必要はないじゃないですか。作曲をする意味もありません。
夫人 「海のソナタ」は主人の遺作ということにします。あなたが書けなかったので偶然見つかった主人の遺稿が「音楽と生活」に掲載されるの。最高でしょう?
わたし じゃあ、わたしの名前は?
夫人 当然載らないわ。
わたし でも桐野さんが…。
夫人 鷺沢の名前を出せば簡単に裏切るわよ。あなたのような新人作曲家の作品と主人のような大作曲家の遺作。どちらが話題になると思う?
わたし ……。
夫人 じゃ、作曲をお願いね。

  夫人退場。

   入れ替わりに松下が入ってくる。
   じっと立ち尽くす松下。

わたし 何してるの出て行って。
松下 和音さん。
わたし 下の名前で呼ばないでっていったでしょう。
松下 申し訳ない。騙したりして。でも僕はあなたのことが…。
わたし それ以上は言わないで、出て行って。
松下 ……。
わたし 出て行け、馬鹿!

   わたしは譜面を投げつける。
   松下はそれを拾い、ピアノの上に置く。
   わたしはピアノに向かい、鍵盤を弾き始める。

松下 何されてるんですか?
わたし 決まってるでしょう。「海のソナタ」を完成させるのよ。
松下 でも完成してもあなたの名前は出ないんですよ。
わたし それでもいいのよ。わたしの作品が世に出るんですもの。
松下 でもそんなことをしたらあなたはあなたの名前で作品を出せなくなるかも知れない。真樹さんはあなたを潰すつもりで…。
わたし わたしは簡単に潰れたりはしないわ。強いのよ。こう見えても。
松下 和音さん。
わたし もうあなたに用はないの。あなたがわたしに用がないように。
松下 ……。
わたし だから出て行って。

   松下、部屋を出て行く。
   わたしは音を探そうとした。しかしそれは出ては来なかった。
   仕方なくわたしは別の曲を弾くことにした。
   「アメイジング・グレイス」
   最後の和音が響くと同時に先生の顔が浮かんだ。自分の名前が出なくても構わない。わたしはこの曲を完成させることを強く心に決めた。

   暗転。

   リビング

   松下が帰り支度をしている。

松下 それじゃあ、お世話になりました。
夫人 遊びたくなったらまたいつでもいらっしゃい。
わたし さよなら。
松下 和音さん。
わたし 下の名前で呼ばないで。
松下 成瀬さん、今度、僕のために曲を…。
わたし お断りします。
松下 え…。やはりそうですか。
わたし もっと偉くなってから出直していらっしゃい。そうしたら考えないこともないわ。
松下 ありがとうございます。
わたし 偉くなったらよ。
松下 はい。偉くなります。馬一頭飼えるぐらい偉くなります。
わたし・夫人 ???
松下 あ、ですからね。戦国時代ではですね…。
わたし もういいわ。とにかく偉くなってね。
松下 はい、一国一城の主に成って見せます。
わたし なんかよくわからないけど、さようなら。
松下 さようなら。お元気で。

   松下、退場。

わたし 変な人ですね、隆さんって。よくわからない。
夫人 まあ、でもあれでもいい子なのよ。作曲は進んでる?
わたし はい、第二楽章は終わりました。あとは最終楽章だけです。
夫人 そうお願いね。主人の名を汚さないものにしてね。
わたし わかりました。
夫人 わたしのこと恨んでる?
わたし いえ…。
夫人 正直言っていいのよ。わたしはあなたを恨んでいます。もちろんわたしも大人だから、ここで今すぐあなたをどうこうということはしないわ。でもわたしはあなたを許そうとは思わない。わたしが苦しんだ分だけあなたを苦しめてみせます。
わたし わたしだってあなたに負けたりはしません。
夫人 そう望むところね。

    夫人退場、わたしはひとり残される。

わたし 負けたりはしないわ。

   わたしは、譜面を取り出し、こう書き込んだ。
   第三楽章「レクイエム」
   暗転。

   書斎

    わたしはピアノを弾き続けている。主題は「アメイジンググレイス」だ。
   夫人が入ってくる。

夫人 「アメイジンググレイス」。最終楽章?
わたし いえ、第二楽章です。聴きます?
夫人 ええ。

   第二楽章は簡単な伴奏の上に「アメイジンググレイス」の主題が現れ、それが変奏される。やがて海の主題が現れ、「アメイジンググレイス」は海の主題の中に埋没して行く。あたかも消え去る木霊のように。やがて海の主題は風の主題へと変わり、嵐の場面が登場する。激しいアッチェレランド。疾風怒濤の果てに第二楽章は終わる。

夫人 ずいぶんと激しい終わり方をするのね。
わたし ええ、波が荒れるときもありますから。
夫人 で、第三楽章は凪に戻るの?
わたし はい。
夫人 わたしとあなたの関係もそうなるといいわね。

   間。

夫人 ね。
わたし そうですね。
夫人 あとどれぐらいかかりそう?
わたし 一週間もあれば終わります。
夫人 主人の新作が出来上がるって訳ね。
わたし 真樹さん。
夫人 何?
わたし どうして先生は「海のソナタ」のスケッチを残しておかなかったんでしょう。普通、タイトルだけを残しておくなんて事ありませんからね。
夫人 スケッチする暇もなく亡くなったんじゃないの? わたしには詳しいことはわからないわ。
わたし 先生はここに別荘を構えていた。なのに一曲も海に関する曲を残していない。
夫人 たまたまよ。
わたし そうでしょうか?
夫人 何か他に考えられる?
わたし いえ。真樹さんは先生の日記をご覧になったことあります? いえ、正確にいうとMDに録音された先生の肉声ですけど。
夫人 いいえ。わたしは主人のものには一切手を触れてはいないわ。あなたひょっとして…。
わたし はい。
夫人 そんなことして恥ずかしいとは思わない?
わたし いいえ。先生の残したもの全てを管理するのがわたしの仕事ですから。
夫人 弟子なら何をしてもいいってわけ?
わたし わたしが先生の残した声を耳にしたのはたまたまです。そんなものが残っているということも知りませんでした。
夫人 それで?
わたし 「海が聞こえる」と先生は仰っていました。
夫人 海ならいつだって聞こえるわよ。
わたし いえ、先生は波が聞こえる、あるいは波の音が聞こえるとは言わずに、海が聞こえると仰ったんです。
夫人 あの人独特の言い回しよ。
わたし そうでしょうか?
夫人 そうよ。
わたし わたしにはそうは思えないんですけど。
夫人 どういうこと?
わたし 先生は海に何か脅威のようなものを感じていたんじゃないでしょうか。大自然のようなものに対して。隆さんもそう言ってました。
夫人 感じていたなら何だっていうの?
わたし いえ、上手く言えないですけど。
夫人 上手く言えないなら言わないで頂戴。
わたし でも…。
夫人 主人はずっとここで作曲をしていたの。海に脅威を感じたり何らかの圧力を感じたりするわけないじゃない。
わたし (普段とは違う声音で)違うよ。真樹。
夫人 え?
わたし はい?
夫人 今、何て言った?
わたし いえ、何も言ってませんけど。
夫人 嘘仰い。わたしを脅す気? そうなの?
わたし え、何のことだか。
夫人 気持ち悪い人。

   夫人、退場。
   わたしは自分が何を話したのか思い出そうとしてみた。しかし思い出すことは出来なかった。
   わたしはいくつかの和音を奏で。やがてそれが自然にメロディーに変わっていくのに身を任せた。

わたし (違う声音で)私は恐れていた。海が聞こえる。私の中の海が聞こえる。全ての根元であり、全てを飲み込む海が。私のやって来た場所。私の帰るべき場所。それは私の墓標。柔らかな褥。冷たい牢獄。

   声が切り替わる。

鷺沢 私は恐れる。この果てしなき海原。わだつみの声。私の足下は暗く冷たい。私は敗れたのか。いやそうではない。いやそうかも知れない。人の営みなど、このわたの原の前では戯れにさえすぎない。あらゆる芸術は大自然の前に屈することになる。そうは思わないかね?

わたし そうは思いません。

    ピアノソナタ第一番「海のソナタ」第三楽章。
    「ピアノのためのレクイエム」の主題が低音で鳴り響き、やがて高みから、賛美歌のような崇高なメロディーが落ちてくる。波の主題が遠く木霊する。主題はうねり雄々しく聳える。やがて「ピアノのためのレクイエム」の主題と海の主題が互いを牽制するように響き合い、時に溶け合い、時に拮抗する。突然凪が訪れ、    ピアノはシンプルな単音を奏でる。海の主題が現れ、何度も何度も繰り返され、遠くへと消えていく。

わたし 先生…。

   わたしは立ち上がり、部屋の中央まで出て、不意に目眩に襲われ、倒れる。
   同時に明かりが落ちる。
   
   武満徹の「鱈岬」が流れる。

                         幕
    
               2004年1月2日千葉県九十九里町真亀にて




 
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