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救世主は手のひらの上で
作 ソンブレロ
〈第1場〉
砂漠の中の小さな修道施設。
その室内。
中央にテーブル。
椅子が数脚。
男が一人、神妙な面持ちで内部の様子
を窺いながら現われる。
しばし立ち尽くし、肩からかけていた
ズタ袋をテーブルの上に置く。
やがて男とは逆の方向から顔をベール
で覆った女が現われる。
男 あ……。
女 なにか?
男 いや……。
誰か来なかったかな?
待ち合わせをしたんだけど……。
女 待ち合せ……?
ここは待合所ではないのよ。
男 ああ、だけどこの辺りはほかになにもないし、だから……。
女 そう。
でも誰も来なかったわ。
沈黙。
男 待たせてもらえないかな?
女 どのくらい?
男 数時間か、もう少しかかるか……。
沈黙。
女 人を待つのね。
いいわ。
ただしここにはここのルールがあるから。
守ってもらえるわね?
男 あ、ああ、うん。
女 武器を持っていたら出して。
男、ズタ袋の中を探り、拳銃を取り
出してテーブルの上に置く。
男 使えない。
拾ったんだ。
女、男の顔とズタ袋を交互に見る。
男、再びズタ袋の中を探り、数発
の銃弾を取り出してテーブルの上
に置く。
男 もうない。
女、懐からスカーフを取り出して
拳銃と銃弾を包む。
女 ここでお酒は飲めないし、煙草も。
いい?
男、頷く。
女、去り際に振り返り声をかける。
女 かけたら?
女、去る。
男、ゆっくりと椅子を引いて座る。
しばしの間ののち、女、花瓶を持って
現われ、テーブルの上に置く。
女 花がないの。
男 ああ……?
女 探してくるわ。
男 え。
女 最低限の礼儀だから。
男 いや、オレのためだったら……。
女 うぅん、こちらの問題よ。
これも決まりなの。
留守をお願いね。
男 花なんてあるかな?
女 どこかにはあるでしょ。
男 ずいぶん歩いたけど、ここに来るまでは見なかったし、花どこ
ろか草だってろくに生えていなかったけどね。
女 じゃああなたが見ていなかったところを探すわ。
男 あ、そうだ……。
男、ズタ袋の中を探り、一輪の薔薇
の花を取り出す。
男 こんなものを持っていた。
ちょっと萎れかかっているけど……。
男、花瓶にさす。
男 もらったんだ。
砂漠の入口にいたもの売りの老人に。
これじゃあ駄目かな?
女 え、ああ……。
女、男の顔を凝視する。
男 うん?
どうかした?
沈黙。
男 なに?
女 ああ、そう……。
ちょっといい?
立ってもらっても。
男 え。
女 立って。
男 あ、ああ……。
男、意図を読めないまま立ち上
がる。
女、男の全身を凝視する。
男 なんなの?
女 うぅん、そうしていて。
女、男の目前に跪いて目を閉じ、
両手の指を交互に合わせて祈る。
男、呆気にとられ立ち尽くして
いる。
明り、ゆっくりと絞られる。
やがて暗転。
〈第2場〉
明転。
前場と同じ場所。
女、燭台を持って現われ、テーブル
の上に置く。
女 火を。
男 うん?
女 火を点けていただけない?
男 あ、ああ……。
男、ズタ袋を手に取る。
女 うぅん、違うの。
あなたの気持ちだけで。
男 え。
女 あなたの力だけでよ。
男 力って……。
どういうこと?
女 気持ちを込めるの。
火が点くようにって。
女、蝋燭に両手をかざす。
女 一点に集中してね。
女、しばし蝋燭を見つめる。
女 こんなかんじ。
いい?
男 いや……。
女 なに?
男 なにって、意味がわからない。
女 難しく考えないで試してみて。
自分の力を。
男 そんな、力なんて……。
女 あるわけない?
決めつけないで。
思わぬことが起こることもあるわ。
こうして、手をかざして。
女、手をかざして蝋燭を見つめる。
女 やってみて。
男、渋々従う。
変化なく時間が経過する。
男、女の顔を見る。
女 もう少し続けてみてくれない?
男 意味ないよ。
こんなこと。
女 お願いだから。
男、従うがすぐに中断する。
女 気持ちを込めた?
もっと自分を信じてみて。
男 なにをどう信じろって言うんだよ?
女 出来ると思うことを。
ね。
男、渋々従う。
変化なく時間が経過する。
男 もういいかな?
女 まだよ。
まだ止めないで。
更に変化のない時間が過ぎる。
男、大きく息を吐く。
女 もう少しだけ……。
男、燭台を弄ぶ。
女 ねえ。
男、首を振る。
女 だめ?
男 ああ、意味ない。
女 そう……。
女、燭台を持って去る。
しばしの間ののち、女、水瓶を
持って現われ、テーブルの上に
置く。
女 ここに水を満たしてくれない?
さっきみたいに気持ちを込めて。
男 さっきだってなにも出来なかったよ。
女 これはどうかしら?
男 同じだよ。
手品師じゃあるまいし。
女 ええ、そう、手品なんか見たくないわ。
あなたを見込んでのことだから。
男 どう見込んでるんだ?
手品じゃなきゃなんなんだ?
奇跡を起こす人か。
じゃあ神か?
神業か?
女 そう思っちゃ駄目?
男 え。
女 神業ってことじゃ……。
男 なんの話?
女 あなたが神様じゃないかって思うことよ。
男 いや……。
なんなんだ、一体。
女 もしかしたら自覚がないだけかもしれないもの。
男 あんた大丈夫か?
女 あんたなんて呼ばないで。
神様だってそんな呼び方はしないはずよ。
男 いや、だから……。
女 やってみて。
これ。
もう一度。
男 やらないよ。
女 さっきみたいに。
男 やらない。
女 火を灯せなくても水瓶を満たすことは出来るかもしれない。
誰だって万能じゃないわ。
それは神様だってね。
男 だから神様じゃあ……。
女 じゃあ……。
あなたは神様じゃない、手品師でもない。
その前提でお願い出来ない?
沈黙。
男 残るは魔法使いくらいかな。
はは。
男、渋々水瓶に手をかざす。
女 かたちじゃないの。
大事なのは気持ちの方。
そうじゃないと意味がないから。
変化なく時間だけが経過する。
男、首を振る。
女、続けるようにと首を振る。
男 同じだよ。
男、中断する。
女 気持ちを込めた?
男 ああ。
女 本当に?
馬鹿らしいって思ったんじゃない?
男 あ、ああ……。
女 思ったの?
馬鹿らしいって。
男 そりゃ思うよ。
誰だって。
女 もう一度だけちゃんとやってみて。
お願い。
それで駄目なら諦めるわ。
男 一体なにがしたくて……。
女 あなたなら出来るかもしれないって。
そう思ったから。
あなたはあなたが思っているだけの人じゃないかもしれないから。
男 はは、勘弁してくれないかな。
女 そんなわけない?
可笑しい?
男 ああ、可笑しい。
そんなわけはない。
沈黙。
女 ねえ、あなたは神様を信じる?
男 さあ……。
あんまり考えたことがないな。
女 考えない?
興味がないってこと?
男 うん、まあ、そうかな。
女 でもなにかお願いしたことはあるんじゃない?
神様、どうか、って。
男 あったかな……。
女 あるでしょ?
危険な目に遭って助けが欲しいときとか。
精神的に救いを求めたくなったときとか。
そういうことない?
男 あったとしても祈るかな……。
女 それはどうして?
いるかどうかもわからないし?
現実味がないから?
じゃあもし逢うことが出来たらどう?
男 逢えたら……?
女 想像してみて。
沈黙。
女 考えが変ったりしないかしら?
男 どうかな……。
想像が追いつかないな。
女 そう……。
そうね、そうよね。
ごめんなさい、急にこんなこと。
水瓶を持ち去ろうとする女に
男が声をかける。
男 いいよ。
これが最後なら。
女、水瓶をテーブルの上に置く。
男、水瓶に手をかざして目を閉
じる。
変化なく時間が経過する。
男 ふふ。
女 ありがとう、もういいわ。
疲れたでしょう。
男 ああ、目眩がしそうだよ。
女 慣れないことをすると消耗するものね。
休んで。
女、水瓶を持って去る。
男、椅子に深く座りなおし、大きく
息を吐く。
明り、ゆっくりと絞られる。
やがて暗転。
〈第3場〉
明転。
前場と同じ場所。
女、ポットとグラスを持って現われ、
男の目前に置いて注ぐ。
男 なんなの?
女 お酒よ。
男 でも、ここで酒は飲めないって……。
女 これは特別。
神様にお供えするお酒なの。
男 え。
そんなの飲んでいいの?
女 お詫びだと思って。
お疲れのところを益々疲れさせちゃったから。
どうぞ。
男 酒なんてどのくらいぶりだろう……。
男、グラスを手に取る。
男 果実酒みたいなものかな?
女 ええ、ナツメラっていう木の実で作ったお酒よ。
男 ナツメラ?
女 聞いたことないでしょうね。
このあたりにしかないっていう珍しい木だから。
男 どんな味がするんだろう……?
女 さあ……。
飲んだことないもの。
男 誰かに飲ませたことも?
女 ないわ。
あなたが初めてよ。
沈黙。
女 やめておく?
男 いや……。
男、一口飲む。
男 うまい。
それにいい香りが口の中に広がるような気がする。
男、飲む。
男 酒とは思えないほど口当たりがいい。
男、飲み干す。
男 今まで飲んだことない味だけど……。
一体どうしたらこんな酒が出来るんだろう。
女 ナツメラの実を乾燥させてから刻んで発酵させるだけよ。
どうぞ。
女、注ぐ。
男、飲む。
男 これが神に献上する酒か……。
女 ええ、そう、聖なるお酒よ。
男、飲む。
男 聖なる酒、そう聞くとなんだか神聖な気持ちになるような……。
はは。
男、飲み干す。
女 どうぞ。
女、注ぐ。
男 香りがいいし、色もいい。
男、飲む。
男 この甘酸っぱさは酒というより果汁そのものを飲んでいるみた
いだ。
男、飲む。
女 とっても飲みやすいみたいね。
男 うん、飲みやすすぎて際限がない。
男、飲む。
男 果実酒みたいなものかな?
女 言ったでしょ、ナツメラの実で作るって。
男 ナツメラ……?
珍しい木なのかな?
女 そうよ、この辺りにしかないらしいわ。
男 一体どうやって作るんだろう?
女 どうやって作ると思う?
男 さあ……?
女 ナツメラの実を乾燥させて、それから発酵させるだけよ。
男 へえ……。
男、飲み干す。
女、注ぐ。
男、飲む。
男 うまい。
こんな酒があるんだな……。
あれ、でもここで酒は飲めないって……?
女 聞いた気がする?
男 ああ、確か、そう……。
女 その通りよ。
ちゃんと憶えていたのね。
男 じゃあ、どうして……?
女 今日は特別なの。
特別な日に特別なことがあったから。
男 え、それは……。
女 だからどうぞ、遠慮なくね。
男、飲む。
男 えーっと……。
なんだっけ。
女 え。
男 ああ、なにかを言おうとしてたんだけど……。
えーっと……。
男、飲む。
女 大事なこと?
男 さあ、どうだったかな……。
男、飲み干す。
女、注ぐ。
男、飲む。
男 おかしいな。
女 なにが?
男 酒の回り方がさ。
変なんだ。
女 どう変なの?
男 飲み口は確かに酒なんだけど、飲んだそばからどこかに消えて
なくなるような……。
男、飲む。
男 それにしても酒なんてどのくらいぶりかな……。
女 体が酔い方を忘れちゃったんじゃない?
男 うん、そうなのかもしれない。
男、飲む。
男 少し酔ってきたかな。
いや、そうじゃないか……。
いや、やっぱり……。
女 どうしたの?
男 なんだか頭と体がそれぞれ別々に……。
女 別々になに?
男 なんて言うか、別々に……。
頭は酔っているのに体は……。
いや、違う。
体は酔っているのに頭は……。
それも違う。
体の中をなにかが駆け巡っているような……。
女 いいのよ。
言葉で言い表せなくても。
あなたの感覚はあなたしかわからないから。
きっと眠っていたなにかが目覚めようとしているんじゃないかし
ら。
男 なにか……。
なんだろう……?
女 ええ、なんでしょうね。
体かもしれないし、心かもしれないし……。
男、飲み干す。
女、注ぐ。
男、飲む。
明り、ゆっくりと絞られる。
やがて暗転。
〈第4場〉
明転。
前場と同じ場所。
花瓶の薔薇は生気を取り戻している。
男、テーブルに伏せて眠っているが
やがて目を覚ます。
状況が飲み込めず、困惑して辺りを
見回す。
女、気配を察したかのようにポット
とグラスを持って現われる。
顔のベールは外されている。
男 いつの間に……。
女、グラスに水を注ぐ。
女 お水を。
男 ああ……。
男、飲む。
そして頭に手を当てる。
女 痛いの?
男 少し。
女 ずいぶん飲んだものね。
男 なにを?
女 忘れたの?
ナツメラ酒、ナツメラで作ったお酒。
男 酒を……?
沈黙。
男 いや、そうだったかもしれない。
それを飲んだら急に眠くなって……。
女 急にじゃないわ。
いっぱい飲んだのよ。
お酒のような気がしない。
まるで果汁を飲んでいるみたいだって言って。
沈黙。
男 ああ、そう言えば……。
あ。
男、女の顔を凝視する。
女 なに。
男 いや……。
女 ああ、顔?
昨日までは復活節だったから。
男 復活節?
女 ええ、神の蘇生を願う期間。
顔を隠して祈りを捧げるっていう決まりなの。
男 へえ……。
あれ、昨日って言った?
女 ええ、それが……?
男 そんなに眠ってたのか……。
男、立ち上がる。
男 どうしちゃったんだ……。
昨日、ここに来て……。
沈黙。
女 どうかした?
男 思い出せないんだ。
肝心なことが。
なにしにここに来たんだ……。
女 待ち合わせでしょ?
男 え。
女 そう聞いたわ。
人を待つんだって。
男 待つって誰のことだろ……。
男、座って水を飲む。
男 駄目だ……。
男、ズタ袋の中を探る。
男 どこへ行こうとしていたんだ……。
女 巡礼だと思うわ。
男 巡礼?
そんなこと言ってた?
女 うぅん、でもほかにあるかしら。
こんなところに来る理由が。
沈黙。
女 きっと一時のことよ。
いまに思い出すわ。
沈黙。
女 じゃあお祈りをして。
男 え。
祈るって……?
女 神様に。
男 思い出せるようにって?
女 うぅん、毎日のお祈りよ。
約束したじゃない?
これから毎日、定時のお祈りをするって。
昨日もしたでしょ?
男 そうだっけ……。
女 お祈りの仕方も教えたわ。
それも憶えてないみたいね。
女、天井を見上げ、顔の近くで
両手の指を交互に合わせる。
女 真似して。
男、立ち上がる。
女、目を閉じる。
男、真似る。
女 天と地に祝福を。
信じる者たちに救いを。
女、正面を向き、声のトーンを
落として何事か呟きながら祈る。
男、時々横目で女の様子を窺う。
女、深々と礼をして黙祷。
男、真似る。
女、去る。
男、女がいないことに気づき所在
なく立ち尽くす。
男、花瓶の薔薇に気づいて手を伸
ばす。
やがて女、本を持って戻り、テー
ブルの上に置く。
女 はい、これ。
どうぞ。
男 うん?
女 読んで憶えるって約束したじゃない。
男 これは?
女 教典よ。
お祈りと教典の熟読。
巡礼者のお努めって教えたでしょ。
男 読めばいいんだっけ?
女 読んで憶えて。
男 憶えるって……?
女 ええ、そうよ。
男、ページを捲ってみる。
男 これを全部……?
女 そう、でもあなたはただの巡礼者じゃないから、それだけじゃ
ないけどね。
男 え。
女 でもそれは次の段階よ。
読んで。
さあ。
男 あ、ああ……。
男、座る。
初めて見る教典にやや戸惑うが、
徐々に順応して読んでいく。
明り、ゆっくりと絞られる。
やがて暗転。
〈第5場〉
明転。
前場と同じ場所。
男、教典を読んでいる。
やがて女、器を持って現われる。
女 どうぞ。
男 なに?
女 干したナツメラの実。
男、一粒つまんで見つめる。
女 滋養になるわ。
男、ナツメラの実を器に戻し
本に意識を戻す。
女 ご熱心ね。
男 なんだか不思議なんだ。
読んだ先からどんどん頭に入ってくる。
まるで空っぽの部屋に荷物を詰め込んでいるみたいに。
女 もうそんなに読み進んだのね。
男 これは二回目だよ。
最初は言われたとおりに読んで憶えただけで、いまはそれを確認
しているんだ。
それにしても、こんなに物覚えがよかったかな……。
女 本当に部屋が空っぽになったからじゃない?
男 え。
女 あなたの心と体。
整理されてすっかりきれいになったから憶えやすいんじゃないか
しら。
男、本に意識を戻す。
女、しばしその様子を眺めている。
女 出かけてくるわ。
男 どこまで?
女 泉よ。
水を汲みにね。
男 遠いの?
女 少しね。
三日もあれば戻って来れるわ。
男 三日か……。
遠いな。
沈黙。
女 あなたならどうかしら?
自分ならすぐに戻れるって思えたりする?
男 いや、どうかな……。
女 自信あるんじゃない?
男 でも泉の場所を知らない。
女 そんなの必要ないのかもしれない。
泉がどこにあるかなんて。
男 え。
女 わざわざ行かなくてもね。
そう思えない?
そんな気がするってだけでもいいの。
どう?
男 どうって……?
女 そこに書いてあったでしょ?
多くの人々の助けになったって話よ。
泉のある場所まで何日もかけて水を求める人たちに。
年老いて山羊や羊を扱うことが困難になった人たちにも。
奇跡が起きたでしょ。
まるで水瓶の底から湧き出すように水が満たされたって。
水だけじゃなく、山羊や羊の乳だってね。
彼らを手懐けたり餌場に導いたりすることなく搾乳缶を満たすこ
とが出来たって。
男 ああ、読んだよ。
そう書いてあった。
でもそれは本の中の話だし。
女 ねえ、教典は物語じゃないのよ。
憶えるためだけに読むんじゃなくて、我がことだと思って読んで。
そして少しずつでいいから自覚して欲しいの。
男 我がことって……。
女 そういう自覚と認識。
頭で自覚して、体で認識するの。
頭に入ったことが体現出来るって信じればいずれそうなるから。
男 いや、でも……。
女 こう考えることは出来ない?
教典にはあなたを作った人のことが書かれているって。
それでね、あなたは……。
男 ちょっと待って。
オレを作った?
女 ええ、そう考えるのは無理かしら?
男 いや……。
女 腑に落ちない?
違和感がある?
男 だって、いくらなんでも……。
オレはそんな……。
女 そんな、なに?
男 オレは……。
女 ええ、あなたは?
そんなはずはない?
男 あ、ああ……。
女 その根拠は?
男 え。
女 じゃあどこから来たの?
どこで生まれたの?
沈黙。
女 うん?
男 それは、だから……。
女 ええ、なに?
男 いや、それは……。
女 ああ、無理に思い出さなくていいわ。
貸して。
女、教典を受け取る。
女 混乱させちゃったみたいね。
ごめんなさい。
わざわざ言うことじゃなかったわ。
あなたはその方の能力を受け継いでいるんだから。
素養は備わっているの。
その気になれば自然に心と体に宿っていくと思うわ。
沈黙。
女 ね。
男 その気になれば、か……。
女 難しく考えないでね。
焦らずにゆっくりでいいから。
男、教典を受け取る。
女 これ、どうぞ。
とっても栄養があるの。
男 ああ、うん。
男、ナツメラの実を手に取って
口に入れる。
座って本に意識を戻す。
明り、ゆっくりと絞られる。
やがて暗転。
〈第6場〉
明転。
前場と同じ場所。
男、教典を閉じ、虚空を眺めている。
やがて女、現われる。
女 どうかした?
男 うん、ちょっと……。
女 行き詰まっちゃったの?
男 いや、これを読み返そうと思ったら読めなくなったんだ。
女 読めない?
男 まるでなにも書かれていないみたいに。
字がひとつも読めない。
いや、見えない……。
女 ずいぶん読んだんじゃない?
男 うん、もう何十回と読んだよ。
女 じゃあその本はもう空っぽなのよ。
あなたの中にすべて入ったから。
全部憶えちゃったでしょ?
男 ああ、うん。
女 我がことだっていう自覚と認識も出来たのかしらね?
男 まあ、そうなのかな……。
沈黙。
男 水を汲みに行くんじゃないの?
女 もう行って来たわ。
男 もう?
だって……。
女 だってなに?
男 三日かかるって。
女 ええ、そうよ。
三日かかったわ。
男 え。
沈黙。
男 あれから三日か……。
女 すごく集中していたみたいね。
ナツメラの実ってとっても滋養になるから。
男 水は汲めたの?
女 うぅん、駄目だった。
汲めなかったわ。
男 どうして?
女 泉が涸れちゃってたから。
沈黙。
女 残念だったわ。
男 だろうね。
三日もかけて……。
女 帰り道でお年寄りに声をかけられたの。
水を少し分けてもらえないかって。
それが出来なかったことがね。
男 ああ……。
女 そのあとに盗賊に逢ったの。
持ってる水をよこせって。
だからもし水が汲めたとしても結果は同じね。
奪われたでしょうから。
男 いや、でも同じじゃない。
盗賊に水を盗られる前に年寄りに分けてやれただろうから。
沈黙。
女 出かけてくる。
男 どこに?
女 ほかの泉を探しに。
男 オレが行こうか。
女 うぅん、あなたはここで祈っていて。
ほかに泉が見つかりますようにって。
その方がうまくいくと思うわ。
女、去る。
男、立ち上がり、目を閉じて何事か
呟きながら祈る。
沈黙。
男、教典を手に取り、しばし表紙を
眺めている。
やがて女が水瓶を抱えて戻る。
女 見て。
こんなに。
水が満たされている。
男 え。
女 これ、ね、すごいでしょ?
男、水瓶の中をのぞき込む。
男 どうしたの?
女 歩き始めたらどんどん水瓶が重くなっていって……。
間もなくいっぱいになったの。
あなたが祈ってくれたおかげよ。
三日間の道のりが報われますようにって。
そう祈ってくれてたんでしょ?
男 あ、ああ……。
でも本当にそんな……?
女 そうよ、つまり、自覚が出来てしっかり認識された証拠ね。
少しは自信がついたんじゃない?
男 ああ、うん、まあ……。
女 じゃあもう一度お願いね。
男 え。
女 出かけてくるから。
男 どこに?
女 水を分けてあげに。
だから祈って。
お年寄りに逢えるようにって。
狼や盗賊に逢わないようにって。
ね。
男 あ、ああ……。
女、去る。
男、立ち尽くしていたが、我にかえった
ように目を閉じて何事か呟きながら祈る。
明り、ゆっくりと絞られる。
やがて暗転。
〈第7場〉
明転。
前場と同じ場所。
男、白い麻布の服に袖を通している。
しばしの間ののち、女、羊の乳の入った
壺とカップを持って現われテーブルの上
に置く。
女 上まで留めてね。
女、去る。
男、服のボタンを留めている。
やがて、女、ペンダントを持って戻る。
女 これ。
いい?
男 うん?
女、ペンダントを男の首にかける。
女 犠牲と復活の象徴よ。
男、ペンダントトップを手に取って
見る。
女、男に向かって祈る。
女 着心地は?
男 うん、いい。
女、壺を持ってカップに注ぐ。
女 羊の乳よ。
助かるわ。
あなたが祈ってくれたおかげ。
なにも手を煩わせることなくこうして……。
どうぞ。
男 こうして……?
女 ええ、搾乳缶の底から湧き上がるみたいにね。
男 まるで魔法だな。
男、飲む。
女 でもあなたは魔法使いなんかじゃないわ。
男 うん、そんなわけない。
女 救世主。
自覚と認識。
忘れてないでしょ?
男 あ、ああ……。
男、飲む。
女 いつもだったら今月は風の月なの。
目が開けていられないくらい強い風が毎日のように吹き続けるの
よ。
でもあなたのお祈りのおかげで今日も外は穏やかだわ。
男 本当に祈りのせいかな……?
女 試しにお祈りをやめたりしないでね。
急に大風が吹き荒れたりしたら大変だもの。
男、飲む。
女 ありがたいわ。
こんな時期でも外に出られるなんて……。
ねえ、相談をうけたんだけどね、農場を作るにはどの方角がいい
と思う?
男 方角……?
女 そういう聞き方はよくなかったわね。
えーっと、そう……。
あっちの方角に農場に適した場所が見つかるようにお祈りして
もらえないかしら?
女、手を上げて指し示す。
男 あ、ああ……。
女 あ。
女、訪問者の気配を感じ、去る。
男、目を閉じて何ごとか呟きながら
祈る。
しばしの間ののち、女、いくつかの
封筒を持って戻る。
女 郵便屋さんだったわ。
男 こんなところに?
女 そうよ、ロバの郵便屋さんが届けに来てくれるの。
女、開封する。
女 あら、これ……。
あなたに伝えて欲しいって。
男 オレに……?
女 ええ、親愛なる救世主様にどうかお伝えくださいって……。
男 一体誰が……?
女 あなたが知らなくてもむこうは知っているのよ。
水瓶のことや羊の乳やこの風のことだってね、私が触れ回ってい
るから。
砂漠って広いけれど意外と伝わるのは早いの。
男 へえ、参ったな。
女 参ることないわ。
頼りにされているんだもの。
じゃあご希望どおりに、えーっと……。
駄文でお恥ずかしいのですが何卒ご容赦ください。
親愛なる救世主様。
私は日々野獣や盗賊を恐れながら暮らしている貧しい、そして愚
かな羊飼いです。
羊たちを首尾良く餌場に誘うことが出来ず、毎度群れを迷わせ疲
れさせた挙げ句、やっと見つけた牧草地では加減を知らない羊た
ちに草が絶えるまで食べさせ、他の羊飼いに迷惑をかけてしまう
始末です。
どうかこんな私めに励ましを、そして羊飼いとして生き抜くため
の知恵と能力をお授けくださいませ。
どうか。
沈黙。
女 どうか。
男 あ、ああ……。
え、知恵となんだっけ?
女 励ましと知恵と能力よ。
男 そうか……。
それを授けるっていうと……?
えーっと、やっぱり祈るってことかな?
女 ええ、そうね、そうしてあげて。
男、目を閉じて何ごとか呟き
ながら祈る。
女 主の力添えが必ずあるはずって、私が返事を書いておくわ。
じゃあ次ね。
女、べつの封筒を開ける。
女 恐れ多いことと存じますが、お伝えいただけますことを切に願
う所存です。
えーっと……。
我が救世主様。
罪深き私をどうかお許しください。
私は先般の断食期間中にこっそり豆のスープを食してしまいまし
た。
しかもこれが初めてではありません。
お恥ずかしい話ですが、正直申し上げますと、ほぼ毎度のように
愚行を繰り返しておりました。
頭でわかっていても行動を律することが出来ない自分のなんと情
けないことでしょうか。
神が定めた神聖なる儀式を冒涜した私にどうか寛容なる慈愛の力
で正しいお導きを、どうか。
どうか、私めに。
沈黙。
女 どうか。
男 うん、そうか、断食ね……。
女 ええ、愛ある戒めと指導を。
男 頭ではわかっているんだから、実行出来ればいいんだろうけど
……。
女 そういうことよね。
男 うん、まあ、これも祈るよ。
そう自分を律することが出来るようにと……。
男、目を閉じて何ごとが呟き
ながら祈る。
女 主の力添えが必ずあるはずって、私から返しておくわ。
じゃあ次ね。
女、べつの封筒を開ける。
女 救世主様のお耳に届きますよう何卒お取り計らいのほどを……。
私はいま井戸を掘っています。
ずいぶん深く掘ったつもりですが、まだ目的を果たしておりませ
ん。
明り、ゆっくりと絞られる。
女、手紙を読み続けている。
女 気力も体力もそろそろ尽きかけております。
このあたりで水が出てほしいのですが……。
気弱で非力な私めにどうかやり抜くだけの根気と胆力をお授けく
ださいますよう……。
やがて暗転。
〈第8場〉
明転。
前場と同じ場所。
テーブルの上に未開封の手紙と開封
の済んだ手紙が分けて置かれている。
男、手紙を持ちながら祈っている。
しばしの間ののち女、布袋を持って
現われる。
女 見て。
こんなにたくさん。
ほら。
女、布袋の中からナツメラの実を
摘まんで見せる。
男 へえ、それが生のナツメラの実か……。
女 そうよ、こんなところにっていう場所で見つけたの。
あなたのお導きのおかげ。
男 導き?
女 言ったじゃない?
風の道を行けって。
だから言われたとおりにしたわ。
気がつかなかったけど、風にも道があるのね。
その道を辿ったら立派なナツメラの木があったの。
男 風の道……。
そんなこと言ったかな……。
女 覚えがない?
じゃあ天から預かったのよ。
そしてあなたの心を介して私に伝わったの。
沈黙。
女 あ。
女、訪問者の気配を感じ、布袋を置
いて去る。
しばしの間ののち、女、べつの袋を
持って戻る。
女 お礼ですって。
わざわざ持ってきてくれたの。
男 お礼……?
女 ほら、少しでも雨が降れば助かるってお願いされて、祈って
あげたでしょ。
そのお礼としてのおすそ分け。
ひよこ豆って言ってたわ。
男 じゃあお礼を言った方がよかったかな?
女 そんなのおかしいわ。
だってあなたは救世主なのよ。
男 だから?
女 救世主がお礼のお礼を言うなんて変でしょ?
男 そういうものかな……。
女 そういうものよ。
沈黙。
男 それにしても、いろいろな願いに祈っているとどれがどれだっ
たか……。
女 仕方ないわよ。
たくさんのお願い事を受けているんだもの。
それがあなたの努めだし、これからだってもっと多くのお願いが
届くでしょうしね。
男 もっと多くのか……。
女 ええ、もっともっと。
男 そんなに叶えられるかな?
女、豆を手で掬って見る。
女 大丈夫よ。
あなたはもういくつかの奇跡を起こしたわ。
みんな知っているの。
認められているのよ。
女、豆を少しずつ袋に落とす。
女 あなたは公平に祈るだけ。
そして人々はちゃんと悟っているはずよ。
女、残った豆を掲げる。
女 祈りが通じればご加護が受けられるはずで、叶わなければ祈り
が足りなかったということだとね。
女、手をやや高く上げてから
豆を袋に落とす。
男 求める者の祈り次第ってことか……。
女 ええ、だからみんな心を込めて祈りを捧げ続けるでしょうね。
あら、また……。
女、訪問者の気配を感じて去る。
しばしの間ののち、女、布袋と
いくつかの封筒を持って戻る。
女 ロバの郵便屋さんだった。
女、封筒をテーブルの未開封の
方の山に積む。
女 それからこれ。
女、布袋を見せる。
女 行商の人から預かったって。
男 行商?
女 忘れちゃった?
市場を目指していた人よ。
その途中であなたへの伝言をロバの郵便屋さんに託した……。
男 ああ、そうだっけ……?
女 ほら、主の力添えが必ずあるはずって、すぐに郵便屋さんに伝
言を返したでしょ?
女、布袋を開けて手を入れる。
女 カカオだわ。
カカオ豆。
これもお礼ってこと?
無事に市場に辿り着けたみたいね。
あ。
女、布袋の中から手紙を取り出す。
女 えーっと……。
親愛なる救世主様。
このたびは格別なるご加護を賜り、感謝の念に堪えません。
常に救世主様が見守ってくださっていると思うと勇気が湧き、自
信が漲って参ります。
心持ちひとつでこんなにも変るものかと、これはひとえに救世主
様のお支えがあってのこと、なんと心強いことでしょう……。
女、手紙を置く。
女 あなたの言葉ひとつでこんなに変るのね。
男 でもいつもうまくいくとは限らない。
もしなんらかの受難に見舞われたら、どうだろう……。
女 さっき言ったでしょ。
祈りが通じればご加護が受けられるはずで、叶わなければ祈りが
足りなかったと悟るはずって。
男 そんなふうにいつも折り合いがつくかな。
女 ねえ、あなたを救世主と崇めている人たちはみんなあなたを信
じているのよ。
そんな簡単に諦めたり心変わりすると思う?
男 それは……。
女 あなたは、あなたを信じている人たちより更に大きな心で信じ
てあげなくてはいけないんじゃない?
女、豆の入った袋を集める。
女 出かけてくるわ。
男 どこへ?
女 これを配りに。
必要としている人たちのところへ。
女、去る。
男、テーブルの山を見つめながら
何事か思案する。
明り、ゆっくりと絞られる。
やがて、暗転。
〈第9場〉
明転。
前場と同じ場所。
両方の手紙の山が更に積み上がっ
ている。
男、目を閉じて座っている。
しばしの間ののち、女、いくつか
の封筒を持って現われる。
女 お疲れのようね。
男 あ、いや……。
女 この前収穫したナツメラの実はもう少しで食べられると思うわ。
男 ああ……。
男、背もたれから体を起こす。
女 いいのよ、休んでいて。
男 うん。
もしかして、それも?
女 たったいま届いたの。
女、封筒をテーブルに置く。
女 また新しい山が出来ちゃいそう。
男 ああ、どんどん増えていく……。
女 この頃のお願い事の中には弟子にして欲しいっていうのもある
の。
男 弟子ねぇ……。
女 しかも盗賊からとかね。
男 え。
女、開封済みの中から選び出す。
女 自分は人様の荷や金品を奪う盗賊です。
定住は持たず、その時々の気分だけで刹那に生きてきました。
しかし、これからの人生を善人としてやり直したいのです。
悪行をし尽くしておいてムシがいいのは重々承知の上ですが、何
卒ご理解を賜りますよう、そして、どうかこの私めを弟子にして
いただけないでしょうか。
どうか。
沈黙。
女 どうか。
男 あ、ああ、しかし盗賊じゃあな……。
女 でもせっかく心を入れ替えようとしているのよ。
考えてあげてもいいんじゃない?
男 うん、まあ、それもそうか。
でも弟子にするって、どうすれば……?
女 なんの手続きも儀式もいらないわ。
ただ認めてあげるだけでいいの。
弟子にしてあげたら日に三度、あなたに祈りを捧げることになる
ってだけ。
男 へえ、じゃあ、まあ……。
女 弟子の志願者はほかにもあったの。
寄宿舎から届いた手紙には連名で十数人の名前が記されていたわ。
男 そんなに?
女 いい?
認めてあげて。
男 そうだな……。
女 断る理由もないものね。
それから名付けのお願いもあったの。
男 名付け?
女 無事に長男を産むことが出来た感謝と名付けのお願いがね。
ぜひ末永く幸多き道を歩める名前を、どうかお授けになってくだ
さいませって。
男 オレが名前を……?
女 ええ、末永く幸多き道を歩めそうなのをね。
男 そんなこと言われても……。
どんなのだろ?
たとえば……?
女、首を傾げる。
男 幸多き道を歩める名……。
幸多き道……。
幸ねえ……。
うーん……。
あ、男だっけ?
女 そう、名付けのお願いはほかにもあって、そちらは女の子よ。
しかも双子ですって。
男 ちょっと待って、じゃあ三人……?
女 それに子羊の分もね。
男 え、羊?
女 先週三頭の子羊が生まれたんですって。
この子羊たちそれぞれに愛らしい名前をどうかって。
男 参ったな。
女 まだまだほかにもたくさんのお願い事があるから、聞いてもら
わなきゃね。
女、開封済みの山からいくつかの
手紙を取り出す。
男 ああ、そうだな、まずはそっちから手をつけるか……。
女 じゃあ読むわね。
男 ちょっと待って。
まとめて祈ってもいいかな?
女 え。
まとめて……?
男 うん、増える一方だし、それにけっこう疲れてきたし……。
駄目かな?
そんなのじゃあ。
女 いいわ、心を込めて祈ってくれるのなら。
男、ゆっくりと腰を上げるが、
ふらつく。
男 おっと……。
女 大丈夫?
男 あ、ああ……。
男、尻餅をつくように椅子に座る。
男 はは、どうしちゃったんだろ?
男、再び腰を上げかけるが
よろめいて座る。
女 無理しないで
男 祈るよ。
祈るけど、少し時間が欲しいんだ。
女 ええ、もちろん。
たくさんの人の期待に応えるって大変よね。
男、椅子に深く座って目を閉じる。
男 少しだけ、少しだけ休んだら、また……。
女 ええ、そうね、いいのよ。
男 少しだけ……。
女、男の様子を見守っている。
やがて男、小さく寝息をたてて眠る。
女、訪問者の気配を感じて去る。
しばしの間ののち女、汚れた服(囚人服)
を持って戻る。
女、持っている服と眠っている男の
姿を交互に見ながら何事かを思案し
ている。
明り、ゆっくりと絞られる。
やがて、暗転。
〈第10場〉
明転。
前場と同じ場所。
手紙の山は半分程度に減っている。
男、眠っている。
女、本の背中部分を糸で綴じている。
やがて男、目を覚ます。
男 ああ……。
またいつの間にか眠ってた。
女 いいのよ、休んでいて。
ここのところずいぶん根を詰めていたものね。
男 うん?
それは?
女 本を作っているの。
でもまだ空っぽ。
男 え。
女 真っ白だから。
ほら。
女、本を捲って見せる。
女 これから書くの。
そうすればちゃんとした本になるわ。
男 書くって誰が?
女 誰って言うか……。
よくわからないけど、恐らく一人じゃないと思うの。
あなたの弟子と、その知り合いとか、そのまた知り合いとかね。
そんなかんじになると思うわ。
男 一体なんの本なんだ?
女 あなたに関する本よ。
あなたが起こしたこと。
及ぼした影響。
変化した状況とかね。
男 それを知らない誰かしらが書くんだ……?
女 こういうのって本人が書くものじゃないし、周辺の人が人に伝
えて、更にその人がまたべつの人に伝えてっていうように、口伝
えで少しずつ形作られていく方が教典として相応しいと思うの。
男 え、教典……?
女 必要になってくるでしょうから。
これから多くの人に勇気や希望を与えるためにね。
男 いや、でもオレがなにか教えを説いたりしたかな……。
女 そんな覚えはない?
でもそれは相手の捉え方次第よ。
きっとこうおっしゃったのだろう。
きっとこういう意味なのだろう。
きっとこう望まれているのだろう。
って。
男 だけど、それ本当に必要かな?
そんな新装版の教典のようなものが。
女 既にあるものを改めたり下敷きにするんじゃなくて、はじめて
生まれるものにしたいの。
唯一無二のものにね。
男 でも世の中には唯一無二の神がすでにいくつもある。
これ以上増やしてどうするんだ?
女 うぅん、唯一無二の教典にしたいって言ったの。
人はそれぞれ世界に一人だけでしょ?
だから信仰対象もそれぞれ自分の中にある。
つまり、みんな違うけど信じる心は同じ。
そういう手引き書になればって……。
教典の目的はそこだと栞に書いて挟んだの。
男 ひとりずつ、つまり徒党を組まずに……。
うまくいけば尊重し合えるってわけかな。
女 あなたいいこと言ったわ。
唯一無二は個人の中にある。
それぞれが信じるものを持ち、互いに尊重し合う。
男 そっちが言ったんだろ?
女 うぅん、あなたが導いたのよ。
押しつけず、干渉せず……。
男 競わず、争わず、か……。
女 あ、そう言えばね、ちょっと挑発的な手紙が届いていたの。
えーっと……。
女、手元の封筒を開ける。
女 我こそは真の救世主なり。
貴殿の起こす奇跡の噂はまことなのか、特段懐疑的ではない私で
さえいささか疑問に思うところであり、ぜひお手並みをこの目で
拝ませていただきたい。
私より数段勝る奇跡を……。
ですって。
男 真の救世主か……。
自分でそう思っているならそれでいいだろう。
なにも張り合わなくたって……。
女 そうよね。
恐らく極度に優越意識が高い人物なのか、あるいはただの妄想家
か……。
こういうのってこれからももっと増えるでしょうけど、いちいち気にしないでね。
女、綴じ終えた本を封入する。
男 でもどうしてオレだったんだろう?
女 なんのこと?
男 救世主。
何度も聞いたような気がしたけど……。
女 ええ、何度も聞かれたし、答えたわ。
あなたの頭の中って教典意外にはまるで記憶の余地がないみたい
ね。
沈黙。
女 待っていたから。
僅かな希望として。
男 希望か……。
女 そう、とってもとっても僅かなね。
そして来たの。
あなたが。
あったでしょ?
教典の最後の一節に。
復活の時。
救世主は突然現われる。
それは四度目の新月が確認された翌朝の最初の訪問者として。
一見すると隠者というより粗暴さを感じさせるような風体。
自分が救世主だという自覚は露ほどもなく、神の存在を畏れる様
子もない。
そして、新たなる日の訪れを示す花、変革の象徴である薔薇を携
えていた。
って。
四度目の新月の翌朝、断食が終わる当日。
すべてそのとおりにあなたはここに来たの。
男 偶然か必然か……。
ふふ。
薔薇の花まで持って……。
女 教典の冒頭の一節。
偶然は必然をも凌ぐ力を持つ。
それはしばしば一番肝心なときに起こりうる。
男 確かにそう書いてあった。
女 そしてまた最後の一節。
救世主は自分の身を悟られないように振る舞っているのか、本当
に自覚がないのか、人々には見当がつかなかった。
しかし、献上された聖杯に口をつけるとにわかにその本性を現さ
れた。
同じ世が繰り返されないように。
復活の意味はそこにあると望まれていた。
しかし、それを人々が悟るには更なる時間を要するであろう。
沈黙。
女 もしだたの偶然だったとしても、それで終わらせたくなかった
し……。
男 よくわからないけど、まあ、いいのかな……。
女 なにがどういいの?
男 未だに見えない塔の見えない階段を上がっているような、足元
がおぼつかない感じがあって……。
なんなんだろうって考えるけど、どうにも頭がぼやけていて、ま
あいいかって……。
深く考えることが出来ないんだ。
女 あなたの感覚はあなたしかわからないけど、きっといまに落ち
着いてくるわ。
ねえ、こちらから赴いて祈って欲しいって要望があったら叶えて
あげられる?
男 どこからかそんな話が?
女 ええ、戦災孤児院だったり、養老院だったりとかね。
それから神殿跡というのもあったわ。
男 神殿跡……?
女 宗派争いに巻き込まれた人たちのお墓になっているところ。
多くの人が集まる巡礼の拠点よ。
どう?
男 ああ、それはいいけど……。
なにぶん初めてだし……。
女 それは首尾良くいくかってことで?
男 うん、まあ……。
女 もしかして迷子になるんじゃないかとか?
大丈夫よ。
どこに行くにしても案内人を寄越すはずだから。
救世主が道に迷うなんて笑い話になるものね。
ふふふ。
じゃあ行ってくるわね。
集配所まで、これを出しに。
男 あ、ああ……。
女、封を持って去る。
男、不安げな様子で女の去った方向
を見ている。
明りゆっくりと絞られる。
やがて、暗転。
〈第11場〉
明転。
前場と同じ場所。
手紙の山はほぼ片付いている。
男、目前の燭台に向かって気持ちを
込めていたが、やがて諦めて呆然と
している。
しばしの間ののち、女、現われる。
花瓶を手に取り薔薇の花を見ながら
何事が思案している。
薔薇は盛りを過ぎている。
女が去ろうとしたところで男が声
をかける。
男 さっき……。
女 え。
男 見えたんだよ。
少しだけ火が。
ほんの一瞬点いて消えたんだ。
女 へえ。
男、燭台に向かって気持ちを込める。
変化ないまま時間が経過する。
男と女、見合わせる。
女 ええ、きっとそうね。
信じるわ。
男、燭台を退け水瓶を目前に置いて
気持ちを込める。
女、立ち尽くしている。
やがて男、諦める。
男 ふふ。
女 どうかした?
男 うん?
女 私の留守中になにかあった?
男 いや……。
ただ誰かがドアを叩いた。
女 誰?
男 さあ、わからない。
出なかったから。
女 郵便屋さんかしらね。
男 郵便屋ならあんなに何度も叩かないだろうな。
女 そんなに何度も?
男 誰かがオレを試したくて来たんじゃないのかな。
救世主の化けの皮を剥がそうと……。
女 それでなに?
奇跡を起こす特訓?
沈黙。
女 あ。
男 え。
女 聞こえたでしょ?
男 誰か来た?
女 きっと郵便屋さんよ。
女、去る。
しばしの間ののち、いくつかの封筒
を持って戻る。
女 やっぱりね。
女、開封する。
女 ねえ、赴いて欲しいって要望があったら叶えてあげられるって
言ったでしょ?
この手紙もそうなの。
ご来臨いただく願いは叶いますでしょうかって。
男 へえ、で、どこから?
女 収容所ですって。
男 え。
女 砂漠の向こう、北の果て……。
わかる?
男 なんだって言うんだ?
女 それが、懺悔としか……。
男 懺悔……?
女 ええ、したいって。
それだけよ。
聴聞をお願いしたいって。
女 収容所ってずいぶん遠いみたいね。
男 ああ、何日も夜を徹して歩いたって辿り着けるような場所
じゃない。
沈黙。
男 一体誰がなにを悔い改めるというんだ……。
今更なにを。
男、手紙を取り上げ、テーブルに
叩きつける。
女 収容所ってそんなに救いようがないところ?
男 ああ……。
地獄さ。
いや、悪行を為した者が罰を受けるところが地獄だとすれば……。
もっと悲惨な最上級の地獄だよ。
沈黙。
女 その地獄の番人に恩情は無用ってこと?
男 恩情……?
なんて場違いな言葉だろう。
女 もし、その悲惨な場所の状況になにがしかの変化が見込めたと
しても看過できる?
男 どんな変化が見込めるっていうんだ?
女 わからないけど、ただ、任務自体に疑問を感じたり、罪悪感に苛
まれたりしている人がいることは理解してあげてもいいかと思っ
たの。
男 理解……?
女 せめて遠くから祈ってあげるっていうだけでも……。
男 それでなにがどうなる?
かいかぶるな。
オレになにが出来る?
女 どうしたの?
そんなに昂ぶって……。
沈黙。
女 ずいぶん詳しいのね。
その収容所ってところについて。
男 なにが言いたいんだ?
女 なにも。
そう思っただけよ。
おかしかった?
沈黙。
女 いくら救世主だって飛んでいけるわけじゃないものね。
それに体はひとつしかないし……。
女、ほかの手紙を開封する。
その文面に目を奪われる。
男 うん?
女 うぅん……。
男 どうかした?
女 信仰の本拠を作る計画が持ち上がっているそうよ。
男 なんだそれ?
信仰の本拠……?
女 ええ……。
救世主様が世に現われて久しくも、未だ神殿を築けずにいるとい
うのは我々の信仰心が足りないのではという疑念と反省があり、
また、将来、我が信仰に敵対する勢力が現われた際に抗戦に絶え
うる堅牢な、救世主様をお守りするに相応しい神殿が必要であり
ましょう。その建設を早急に着手すべきと信者一同の意見が一致
し、いままさに聖地となる土地選びを開始した次第でございます。
ですって。
男 抗戦に絶えうる堅牢な、か……。
まあ、本気にすることもないのかな。
信者一同なんて言ってるけど、おべっか使いの戯れ言か、軽い冗
談ということもあるし。
女 違うわ。
これは郵便屋さんから受け取ったものだから。
男 うん?
女 あ、うぅん、だって冗談でいうようなことじゃないわ。
そうでしょ?
そう思わない?
沈黙。
男 信仰と争いごとは卵とニワトリのように縁深いのが常みたいだ
な。
女 残念ながらね。
男 いよいよ塔の更に高いところ、尖塔の先にまで登ったような気
がしてきた。
女 その居心地は……?
よくはなさそうね?
男 ああ、まあ……。
そろそろ降りた方がよさそうな気もする。
女 ごめんなさいね。
男 え。
女 ゆっくり降りてきて。
足元に気をつけてね。
沈黙。
女 ねえ、あなたの待ち合わせをした人って、ついぞ現われないわ
ね。
男 え。
女 そう言ったじゃない?
待ち合わせをしたんだって。
男 あ、ああ、そう……。
女 なに、言われて思い出したみたいに。
男 いや、べつに……。
女 もしかしてただの口実だったのかしら?
男 だとしたら?
最初から受入れなかった……?
女 うぅん、ただ逗留を許していた理由が欲しいかなって思って。
だってここは宿屋じゃないんだもの。
沈黙。
男 ただの思いつきだよ。
待ち合わせなんかしていない。
女 そう、いいのよ。
でもどうして?
たくさん歩いて休みたくなっちゃった?
男 ああ、疲れていたし……。
待ち合わせって言ったのは、なんとなくその方がいいような気が
しただけで……。
女 かえって悪かったわね。
余計に疲れさせちゃって。
男 いや……。
オレも少し長居しすぎたと思っていた。
男、花瓶の薔薇を抜き、眺めている。
女、男の手から花を取り上げ、花と
男を交互に見る。
明りゆっくりと絞られる。
やがて、暗転。
〈第12場〉
明転。
前場と同じ場所。
花瓶に代わり水を張ったガラスの器が
あり、薔薇の花びらが浮かんでいる。
女、顔をベールで覆い、一方向に向か
い立ち尽くしている。
手元近くに布包みが置かれている。
しばしの間ののち、男、女の向いて
いる方向から現われる。
女 あらもう?
もしかして旅は中止?
男 いや……。
女 じゃあ忘れ物かしら?
はい、これ。(手元の布包み)
男 収容所から使い手が来た。
制服でわかる。
女 え。
収容所?
男 こっちに向かってる。
女 うそ。
きっと見間違いよ。
男、包みを開ける。
女 どうするの?
戦うつもり?
男 撃ち殺すしかないだろう。
男、拳銃に銃弾をこめる。
女 やめて!
そんなわけないもの。
沈黙。
女 見てくるわ。
女、出て行こうとするが男が腕を
掴んで引き留める。
女 だって……。
男 気が変った。
ここに籠城する。
男、拳銃のシリンダーを左右に
回しながら調節する。
女 使えないんじゃなかった?
男 試してもいい。
男、拳銃をテーブルに置く。
男 さあ。
女 さあって……。
男 どうせ撃ち殺されるだろう。
それなら同じことだし。
誰に撃たれようがさ。
女 なに言ってるの……?
沈黙。
男 ふふ、取り消すよ。
奴等に撃たれるのだけは御免だな。
だから、その前に頼むよ。
女 馬鹿なこといわないで。
男 ふふふ。
男、拳銃を手に取る。
男 じゃあ人質になるっていうのは……?
少しでも抵抗して遊んでやるのも一興かもしれないな。
男、一瞬銃口を女に向ける。
男 扉が開くと同時に撃ってくるかもしれない。
最悪の場合は道連れになる。
女 まあ、その時はその時ね。
女、椅子に座る。
男 余裕だな。
その理由はオレが見間違えているという確信があるからか、も
しくはオレがうそをついているのを見抜いたから、なのか……。
女 どちらでもいいんじゃない?
結局のところ同じなんだし。
男 うん、そう、どちらにしても刺客は来ない。
ちょっと芝居が下手過ぎたかな、ふふ。
女 ええ、で、その小芝居はなんのつもりだったの?
私への仕返しかなにか?
男 仕返しするような目にはあってないけど……。
まあ、冗談にしてはちょっときつかったかな?
女 そうね、半分本気にしちゃった。
悔しいけれど。
男 半分か……。
オレもそんな感じだったよ。
女 え。
男 少しずつ記憶が戻りはじめるのと引き換えみたいに、あんたの
巧みな演出にのせられて……。
自分に不思議な能力が備わったのかなんて、その気になったりし
て……。
女 言ったと思うけど、もしただの偶然だったとしても、それだけ
で終わらせたくなかったから……。
男 いいよ、おかげでふわふわとした夢まぼろしのような奇妙な感
覚を味わえたし。
女 もう、すっかり?
男 ああ、わりと長く頭の隅が朦朧としていたけど……。
あの酒にはなにか薬でも入っていたのかな?
女 ええ、ただ、薬が入っているんじゃなくて、薬のようなお酒って
ことなんだけどね。
男 あんたが読む手紙もしばらくは本気にしていた。
ほとんどは創作だろ?
届いた郵便物にうまく紛れさせて……。
女 ええ、まあ、そうね、察しの通りよ。
でも感謝の手紙や弟子になりたいとか、名付けのお願いは本当よ。
それから神殿を作るっていうのもね。
男 ああ、それだけはほかの手紙とは読むトーンが明らかに違うの
がわかったよ。
女 だって抗戦に耐えうる堅牢な神殿なんて……。
男 信仰依存の悪癖かな。
危惧するのもわかる。
それにしても収容所からっていうのはまんまと騙された。
女 ごめんなさいね。
あなたの反応を知りたかったの。
もしかして復讐するなんて考えてやしないかって……。
男 考えてみればあり得ない。
あそこには郵便物に対する厳しい検閲がある。
懺悔なんて……。
でもどうしてオレが収容所から来たってわかったんだ?
女 囚人服を脱ぎ捨てたでしょ?
それが届いたの。
男 届いた?
一体どこから誰が?
女 ラクダの郵便屋さんよ。
男 え。
女 ラクダの長距離郵便。
知らない?
ラクダって意外に鼻が利くの。
わざわざ匂いを頼りにここまで届けてくれたの。
男 オレを捕まえたくて?
女 私のことを心配してくれたわ。
もしかして人質にとられて籠城でもしているんじゃないかと思っ
たって。
だから言ったの。
ご心配ありがとう。
その人なら私の手のひらの上よって。
男 ふふふ、なるほど。
でもそのラクダの郵便屋が心配したとおり籠城してるけど……。
女 本当ね。
ねえ、あなたは殺されたくなくて逃げてきたの?
それとも殺したくなくて逃げてきたの?
沈黙。
男 最初は殺される側だった。
その予定に入っていた。
でもいろいろな巡り合わせで殺す方に回された。
女 いろいろ……?
男 オレは設計士だったんだ。
いや、設計士と言っても狩猟用の銃に限ってだけど。
銃の設計、製造、修理が出来る。
作る方も治す方も手が足りなかったから、その腕を買われたんだ。
女 助かったのね。
男 ああ、でも命乞いなんてしていない。
そもそもオレはなにも犯していない。
いや、オレたちは、だ。
同胞を殺すなんて出来るわけがない。
沈黙。
男 お定まりの連鎖ってやつさ。
前世代からの遺恨。
それだけで……。
女 悪いことの循環に限って繰り返し続けるのね。
歴史の連鎖。
それだけで捕らわれて……。
ってこと?
男 ああ、身にまったく覚えのない罪をきせられて……。
沈黙。
男 処刑の実行班に回された日の朝に、作業着やあり合わせの食い
ものなんかを盗み出して……。
試し撃ちをする名目を使って逃げ出してきたんだ。
男、拳銃を弄ぶ。
男 こいつには仕掛けがしてある。
普通には使えないように。
男、拳銃を置く。
男 それを伝えるのを忘れてたんだ。
だから戻ってきた。
下手に弄ると暴発の恐れがある。
でも、ちょっとした操作で使える。
護身用くらいには役に立つ。
女 いらないわ、そんな物騒なもの。
持って行ってくれない?
男、拳銃を手に取る。
男 奴等の拳銃にも仕掛けをした。
手入れをするからと偽って。
男、拳銃をズタ袋に入れる。
男 さてと、じゃあ……。
女 ええ、無事を祈るわ。
男 え、ああ……。
女 あ、おかしいわね。
救世主の無事を祈るって。
男 ふふ、まあ……。
野獣や蛮賊に襲われて果てるくらいなら、いっそ追っ手にでも
捕まって磔にされた方がいいかな?
見せしめとして。
女 ふふ、じつはね、あなたがそうなることを望んじゃったりした
の。
そういう終幕が神格化されるには相応しいかななんて。
男 ずいぶん正直だな。
女 うぅん、もちろん本気じゃないの。
ただの妄想みたいなものよ。
それにいま言うことじゃなかったわね。
言ったそばから後悔してる。
男 そちらのお仲間はどうしちゃったんだ?
まさか最初からひとりってわけじゃ……?
沈黙。
女 それは本当に知らないから聞いてるの?
想像もつかない?
それとも……?
男 いや、いい。
女 私たちだってなにも犯してなんかいないわ。
男 ああ、そうだと思う。
同じだよ。
オレたちと。
女 信じるものが違うというだけで……。
男 うん、人種が違うというだけで……。
女 連れ去られて……。
男 突然有無も言わせずに……。
女 なんて理不尽なこと……。
男 ああ……。
女 私のいない間に……。
男 うん?
女 その時私は出かけていたの。
泉から戻ったら誰もいない。
走り書きされた紙が置いてあったわ。
もしまだここに残った者がいるならすぐに改宗せよ。
真の神に心を委ねよ、条件も選択肢もない。
って。
男 矯正施設のような所に連れて行かれたのか……。
オレたちとはまたべつの地獄だ。
女 恐らく聞かれたはずよ。
お前ら五人のほかに誰かいるのかって。
男 五人だったのか……。
女 もちろん、もういないって答えたでしょう。
私でもそうするわ。
男 ここにいたら、いつどうなるかわからないんじゃないのかな?
女 そうね、そうかもしれないわ。
沈黙。
男 よかったら……。
一緒に……。
女、首を振る。
女 行くあてなんてないもの。
男 オレだってない。
でもここにいるよりはマシなはずだけど……。
女 あなたは少しでもマシな方を選ぶといいわ。
私はここで終わりたいから。
あなたと私が同じ運命を辿るわけにはいかないもの。
男 ここで終わる?
女 ええ、でもあなたは自由よ。
行き着くところまで行って、生きられるだけ生き延びた方がいい
わ。
男 ふふ、ああ……。
オレの役目はとっくに終わっているみたいだし。
女 ごめんなさい。
いろいろとありがとう。
男 いや……。
少しは役に立てたのかな……?
女 ええ、もちろんよ。
男 磔にされるっていうのもいいかと思ったけど、下手すればそれ
も良くない連鎖のきっかけになるような気もするな。
まあ、どっちにしてもオレのうかがい知れぬことだけど。
女 私もよ。
あなたのことが書かれた教典は戻っては来ないわ。
人づてに伝わって、少しずつ出来上がって、長い時間を経て……。
男 読み広がるのかな……?
女 ええ、うまくいけば。
男 うまくいけばか……。
沈黙。
女 行って。
私が見届けたことになっているから。
男 え。
女 書いたの。
本の文末に一行だけ。
私が。
救世主は四度目の新月の翌朝に現われ、六度目の朝に去った。
修道女はそれを見送った。
って。
沈黙。
男 あれからふた月か……。
男、器の中の花びらを掬い取る。
男 うまくいくかもしれないな。
少なくともここまではあんたの筋書き通りだ。
女 また言った。
あんた?
男 あ、いや、そちらの……。
女 ねえ、ナツメラの実、もっと持っていかない?
男 もう十分もらったからな。
ああ、そう……。
男、花びらを器に戻し、ズタ袋の
中を探る。
中から球根大の木の実を取り出す。
男 もの売りの老人から売りつけられたんだ。
そちら様にもひとつ。
女、木の実を受け取る。
女 なに?
男 確かオルブカって言ってたな。
その木の実だって。
砂漠の保存食らしい。
女 へえ、はじめて知ったわ。
男 皮を剥けばそのまま食べられる。
男、木の実の皮を剥く。
男 うん?
女 断食中なの。
男 ああ……。
男、女の傍へ。
男 そちら様も変らなきゃ。
女 え。
男 連鎖を止めるのは……。
男、女のベールを剥ぐ。
男 そちらの役目じゃないか。
終わるんだろ?
始まるために。
沈黙。
女 そうね。
ねえ。
男 うん?
女 おいしいの、これ。
男 さあ、でも期待はしない方がいいかな。
いや、そうだな……。
男、女から木の実を取り上げ、
軽く握る。
男 こうしてさ。
男、木の実に気持ちを込める。
男 よし、ほら。
女、木の実を受け取る。
男 少しは違うかもしれない。
女 そう。
男 ふふ。
女 ふふ。
二人、木の実の皮を剥いている。
明りゆっくりと絞られる。
やがて暗転。
了
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