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救世主は手のひらの上で
作 ソンブレロ
 




    〈第1場〉
    
    砂漠の中の小さな修道施設。
    その室内。
    中央にテーブル。
    椅子が数脚。

    男が一人、神妙な面持ちで内部の様子
    を窺いながら現われる。
    しばし立ち尽くし、肩からかけていた
    ズタ袋をテーブルの上に置く。

    やがて男とは逆の方向から顔をベール
    で覆った女が現われる。


男 あ……。
女 なにか?
男 いや……。
 誰か来なかったかな?
 待ち合わせをしたんだけど……。
女 待ち合せ……?
 ここは待合所ではないのよ。
男 ああ、だけどこの辺りはほかになにもないし、だから……。
女 そう。
 でも誰も来なかったわ。

    沈黙。

男 待たせてもらえないかな?
女 どのくらい?
男 数時間か、もう少しかかるか……。

    沈黙。

女 人を待つのね。
 いいわ。
 ただしここにはここのルールがあるから。
 守ってもらえるわね?
男 あ、ああ、うん。
女 武器を持っていたら出して。

    男、ズタ袋の中を探り、拳銃を取り
    出してテーブルの上に置く。

男 使えない。
 拾ったんだ。

    女、男の顔とズタ袋を交互に見る。
    男、再びズタ袋の中を探り、数発
    の銃弾を取り出してテーブルの上
    に置く。

男 もうない。

    女、懐からスカーフを取り出して
    拳銃と銃弾を包む。

女 ここでお酒は飲めないし、煙草も。
 いい?

    男、頷く。
    女、去り際に振り返り声をかける。

女 かけたら?

    女、去る。
    男、ゆっくりと椅子を引いて座る。
    しばしの間ののち、女、花瓶を持って
    現われ、テーブルの上に置く。

女 花がないの。
男 ああ……?
女 探してくるわ。
男 え。
女 最低限の礼儀だから。
男 いや、オレのためだったら……。
女 うぅん、こちらの問題よ。
 これも決まりなの。
 留守をお願いね。
男 花なんてあるかな?
女 どこかにはあるでしょ。
男 ずいぶん歩いたけど、ここに来るまでは見なかったし、花どこ
 ろか草だってろくに生えていなかったけどね。
女 じゃああなたが見ていなかったところを探すわ。
男 あ、そうだ……。

    男、ズタ袋の中を探り、一輪の薔薇
    の花を取り出す。

男 こんなものを持っていた。
 ちょっと萎れかかっているけど……。

    男、花瓶にさす。

男 もらったんだ。
 砂漠の入口にいたもの売りの老人に。
 これじゃあ駄目かな?
女 え、ああ……。

    女、男の顔を凝視する。

男 うん?
 どうかした?

    沈黙。

男 なに?
女 ああ、そう……。
 ちょっといい?
 立ってもらっても。
男 え。
女 立って。
男 あ、ああ……。

    男、意図を読めないまま立ち上
    がる。
    女、男の全身を凝視する。

男 なんなの?
女 うぅん、そうしていて。
   
    女、男の目前に跪いて目を閉じ、
    両手の指を交互に合わせて祈る。

    男、呆気にとられ立ち尽くして
    いる。

    明り、ゆっくりと絞られる。
    やがて暗転。





    〈第2場〉

    明転。
    前場と同じ場所。

    女、燭台を持って現われ、テーブル
    の上に置く。

女 火を。
男 うん?
女 火を点けていただけない?
男 あ、ああ……。

    男、ズタ袋を手に取る。

女 うぅん、違うの。
 あなたの気持ちだけで。
男 え。
女 あなたの力だけでよ。
男 力って……。
 どういうこと?
女 気持ちを込めるの。
 火が点くようにって。

    女、蝋燭に両手をかざす。

女 一点に集中してね。

    女、しばし蝋燭を見つめる。

女 こんなかんじ。
 いい?
男 いや……。
女 なに?
男 なにって、意味がわからない。
女 難しく考えないで試してみて。
 自分の力を。
男 そんな、力なんて……。
女 あるわけない?
 決めつけないで。
 思わぬことが起こることもあるわ。
 こうして、手をかざして。

    女、手をかざして蝋燭を見つめる。

女 やってみて。

    男、渋々従う。
    変化なく時間が経過する。
    男、女の顔を見る。

女 もう少し続けてみてくれない?
男 意味ないよ。
 こんなこと。
女 お願いだから。

    男、従うがすぐに中断する。

女 気持ちを込めた?
 もっと自分を信じてみて。
男 なにをどう信じろって言うんだよ?
女 出来ると思うことを。
 ね。
 
    男、渋々従う。
    変化なく時間が経過する。

男 もういいかな?
女 まだよ。
 まだ止めないで。

    更に変化のない時間が過ぎる。
    男、大きく息を吐く。

女 もう少しだけ……。

    男、燭台を弄ぶ。

女 ねえ。

    男、首を振る。

女 だめ?
男 ああ、意味ない。
女 そう……。

    女、燭台を持って去る。

    しばしの間ののち、女、水瓶を
    持って現われ、テーブルの上に
    置く。

女 ここに水を満たしてくれない?
 さっきみたいに気持ちを込めて。
男 さっきだってなにも出来なかったよ。
女 これはどうかしら?
男 同じだよ。
 手品師じゃあるまいし。
女 ええ、そう、手品なんか見たくないわ。
 あなたを見込んでのことだから。
男 どう見込んでるんだ?
 手品じゃなきゃなんなんだ?
 奇跡を起こす人か。
 じゃあ神か?
 神業か?
女 そう思っちゃ駄目?
男 え。
女 神業ってことじゃ……。
男 なんの話?
女 あなたが神様じゃないかって思うことよ。
男 いや……。
 なんなんだ、一体。
女 もしかしたら自覚がないだけかもしれないもの。
男 あんた大丈夫か?
女 あんたなんて呼ばないで。
 神様だってそんな呼び方はしないはずよ。
男 いや、だから……。
女 やってみて。
 これ。
 もう一度。
男 やらないよ。
女 さっきみたいに。
男 やらない。
女 火を灯せなくても水瓶を満たすことは出来るかもしれない。
 誰だって万能じゃないわ。
 それは神様だってね。
男 だから神様じゃあ……。
女 じゃあ……。
 あなたは神様じゃない、手品師でもない。
 その前提でお願い出来ない?

    沈黙。

男 残るは魔法使いくらいかな。
 はは。

    男、渋々水瓶に手をかざす。

女 かたちじゃないの。
 大事なのは気持ちの方。
 そうじゃないと意味がないから。

    変化なく時間だけが経過する。
    男、首を振る。
    女、続けるようにと首を振る。

男 同じだよ。

    男、中断する。

女 気持ちを込めた?
男 ああ。
女 本当に?
 馬鹿らしいって思ったんじゃない?
男 あ、ああ……。
女 思ったの?
 馬鹿らしいって。
男 そりゃ思うよ。
 誰だって。
女 もう一度だけちゃんとやってみて。
 お願い。
 それで駄目なら諦めるわ。
男 一体なにがしたくて……。
女 あなたなら出来るかもしれないって。
 そう思ったから。
 あなたはあなたが思っているだけの人じゃないかもしれないから。
男 はは、勘弁してくれないかな。
女 そんなわけない?
 可笑しい?
男 ああ、可笑しい。
 そんなわけはない。

    沈黙。

女 ねえ、あなたは神様を信じる?
男 さあ……。
 あんまり考えたことがないな。
女 考えない?
 興味がないってこと?
男 うん、まあ、そうかな。
女 でもなにかお願いしたことはあるんじゃない?
 神様、どうか、って。
男 あったかな……。
女 あるでしょ?
 危険な目に遭って助けが欲しいときとか。
 精神的に救いを求めたくなったときとか。
 そういうことない?
男 あったとしても祈るかな……。
女 それはどうして?
 いるかどうかもわからないし?
 現実味がないから?
 じゃあもし逢うことが出来たらどう?
男 逢えたら……?
女 想像してみて。

    沈黙。

女 考えが変ったりしないかしら?
男 どうかな……。
 想像が追いつかないな。
女 そう……。
 そうね、そうよね。
 ごめんなさい、急にこんなこと。

    水瓶を持ち去ろうとする女に
    男が声をかける。

男 いいよ。
 これが最後なら。

    女、水瓶をテーブルの上に置く。
    男、水瓶に手をかざして目を閉
    じる。

    変化なく時間が経過する。

男 ふふ。
女 ありがとう、もういいわ。
 疲れたでしょう。
男 ああ、目眩がしそうだよ。
女 慣れないことをすると消耗するものね。
 休んで。

    女、水瓶を持って去る。
    男、椅子に深く座りなおし、大きく
    息を吐く。

    明り、ゆっくりと絞られる。
    やがて暗転。





    〈第3場〉

    明転。
    前場と同じ場所。

    女、ポットとグラスを持って現われ、
    男の目前に置いて注ぐ。

男 なんなの?
女 お酒よ。
男 でも、ここで酒は飲めないって……。
女 これは特別。
 神様にお供えするお酒なの。
男 え。
 そんなの飲んでいいの?
女 お詫びだと思って。
 お疲れのところを益々疲れさせちゃったから。
 どうぞ。
男 酒なんてどのくらいぶりだろう……。

    男、グラスを手に取る。

男 果実酒みたいなものかな?
女 ええ、ナツメラっていう木の実で作ったお酒よ。
男 ナツメラ?
女 聞いたことないでしょうね。
 このあたりにしかないっていう珍しい木だから。
男 どんな味がするんだろう……?
女 さあ……。
 飲んだことないもの。
男 誰かに飲ませたことも?
女 ないわ。
 あなたが初めてよ。

    沈黙。

女 やめておく?
男 いや……。

    男、一口飲む。

男 うまい。
 それにいい香りが口の中に広がるような気がする。
 
    男、飲む。

男 酒とは思えないほど口当たりがいい。

    男、飲み干す。

男 今まで飲んだことない味だけど……。
 一体どうしたらこんな酒が出来るんだろう。
女 ナツメラの実を乾燥させてから刻んで発酵させるだけよ。
 どうぞ。

    女、注ぐ。
    男、飲む。

男 これが神に献上する酒か……。
女 ええ、そう、聖なるお酒よ。

    男、飲む。

男 聖なる酒、そう聞くとなんだか神聖な気持ちになるような……。
 はは。

    男、飲み干す。

女 どうぞ。

    女、注ぐ。

男 香りがいいし、色もいい。

    男、飲む。

男 この甘酸っぱさは酒というより果汁そのものを飲んでいるみた
 いだ。

    男、飲む。

女 とっても飲みやすいみたいね。
男 うん、飲みやすすぎて際限がない。
 
    男、飲む。

男 果実酒みたいなものかな?
女 言ったでしょ、ナツメラの実で作るって。
男 ナツメラ……?
 珍しい木なのかな?
女 そうよ、この辺りにしかないらしいわ。
男 一体どうやって作るんだろう?
女 どうやって作ると思う?
男 さあ……?
女 ナツメラの実を乾燥させて、それから発酵させるだけよ。
男 へえ……。

    男、飲み干す。
    女、注ぐ。
    男、飲む。

男 うまい。
 こんな酒があるんだな……。
 あれ、でもここで酒は飲めないって……?
女 聞いた気がする?
男 ああ、確か、そう……。
女 その通りよ。
 ちゃんと憶えていたのね。
男 じゃあ、どうして……?
女 今日は特別なの。
 特別な日に特別なことがあったから。
男 え、それは……。
女 だからどうぞ、遠慮なくね。

    男、飲む。

男 えーっと……。
 なんだっけ。
女 え。
男 ああ、なにかを言おうとしてたんだけど……。
 えーっと……。

    男、飲む。

女 大事なこと?
男 さあ、どうだったかな……。

    男、飲み干す。
    女、注ぐ。
    男、飲む。

男 おかしいな。
女 なにが?
男 酒の回り方がさ。
 変なんだ。
女 どう変なの?
男 飲み口は確かに酒なんだけど、飲んだそばからどこかに消えて
 なくなるような……。

    男、飲む。

男 それにしても酒なんてどのくらいぶりかな……。
女 体が酔い方を忘れちゃったんじゃない?
男 うん、そうなのかもしれない。

    男、飲む。

男 少し酔ってきたかな。
 いや、そうじゃないか……。
 いや、やっぱり……。
女 どうしたの?
男 なんだか頭と体がそれぞれ別々に……。
女 別々になに?
男 なんて言うか、別々に……。
 頭は酔っているのに体は……。
 いや、違う。
 体は酔っているのに頭は……。
 それも違う。
 体の中をなにかが駆け巡っているような……。
女 いいのよ。
 言葉で言い表せなくても。
 あなたの感覚はあなたしかわからないから。
 きっと眠っていたなにかが目覚めようとしているんじゃないかし
 ら。
男 なにか……。
 なんだろう……?
女 ええ、なんでしょうね。
 体かもしれないし、心かもしれないし……。

    男、飲み干す。
    女、注ぐ。
    男、飲む。

    明り、ゆっくりと絞られる。
    やがて暗転。





    〈第4場〉

    明転。
    前場と同じ場所。
    花瓶の薔薇は生気を取り戻している。

    男、テーブルに伏せて眠っているが
    やがて目を覚ます。
    状況が飲み込めず、困惑して辺りを
    見回す。
    
    女、気配を察したかのようにポット
    とグラスを持って現われる。
    顔のベールは外されている。

男 いつの間に……。

    女、グラスに水を注ぐ。

女 お水を。
男 ああ……。

    男、飲む。
    そして頭に手を当てる。

女 痛いの?
男 少し。
女 ずいぶん飲んだものね。
男 なにを?
女 忘れたの?
 ナツメラ酒、ナツメラで作ったお酒。
男 酒を……?

    沈黙。

男 いや、そうだったかもしれない。
 それを飲んだら急に眠くなって……。
女 急にじゃないわ。
 いっぱい飲んだのよ。
 お酒のような気がしない。
 まるで果汁を飲んでいるみたいだって言って。

    沈黙。

男 ああ、そう言えば……。
 あ。

    男、女の顔を凝視する。

女 なに。
男 いや……。
女 ああ、顔?
 昨日までは復活節だったから。
男 復活節?
女 ええ、神の蘇生を願う期間。
 顔を隠して祈りを捧げるっていう決まりなの。
男 へえ……。
 あれ、昨日って言った?
女 ええ、それが……?
男 そんなに眠ってたのか……。

    男、立ち上がる。

男 どうしちゃったんだ……。
 昨日、ここに来て……。

    沈黙。

女 どうかした?
男 思い出せないんだ。
 肝心なことが。
 なにしにここに来たんだ……。
女 待ち合わせでしょ?
男 え。
女 そう聞いたわ。
 人を待つんだって。
男 待つって誰のことだろ……。

    男、座って水を飲む。
 
男 駄目だ……。
   
    男、ズタ袋の中を探る。

男 どこへ行こうとしていたんだ……。
女 巡礼だと思うわ。
男 巡礼?
 そんなこと言ってた?
女 うぅん、でもほかにあるかしら。
 こんなところに来る理由が。

    沈黙。

女 きっと一時のことよ。
 いまに思い出すわ。

    沈黙。

女 じゃあお祈りをして。
男 え。
 祈るって……?
女 神様に。
男 思い出せるようにって?
女 うぅん、毎日のお祈りよ。
 約束したじゃない?
 これから毎日、定時のお祈りをするって。
 昨日もしたでしょ?
男 そうだっけ……。
女 お祈りの仕方も教えたわ。
 それも憶えてないみたいね。

    女、天井を見上げ、顔の近くで
    両手の指を交互に合わせる。

女 真似して。

    男、立ち上がる。
    女、目を閉じる。
    男、真似る。

女 天と地に祝福を。
 信じる者たちに救いを。

    女、正面を向き、声のトーンを
    落として何事か呟きながら祈る。
    男、時々横目で女の様子を窺う。

    女、深々と礼をして黙祷。
    男、真似る。

    女、去る。
    男、女がいないことに気づき所在
    なく立ち尽くす。

    男、花瓶の薔薇に気づいて手を伸
    ばす。
    やがて女、本を持って戻り、テー
    ブルの上に置く。

女 はい、これ。
 どうぞ。
男 うん?
女 読んで憶えるって約束したじゃない。
男 これは?
女 教典よ。
 お祈りと教典の熟読。
 巡礼者のお努めって教えたでしょ。
男 読めばいいんだっけ?
女 読んで憶えて。
男 憶えるって……?
女 ええ、そうよ。

    男、ページを捲ってみる。

男 これを全部……?
女 そう、でもあなたはただの巡礼者じゃないから、それだけじゃ
 ないけどね。
男 え。
女 でもそれは次の段階よ。
 読んで。
 さあ。
男 あ、ああ……。

    男、座る。
    初めて見る教典にやや戸惑うが、
    徐々に順応して読んでいく。

    明り、ゆっくりと絞られる。
    やがて暗転。





    〈第5場〉

    明転。
    前場と同じ場所。

    男、教典を読んでいる。
    やがて女、器を持って現われる。

女 どうぞ。
男 なに?
女 干したナツメラの実。

    男、一粒つまんで見つめる。

女 滋養になるわ。

    男、ナツメラの実を器に戻し
    本に意識を戻す。

女 ご熱心ね。
男 なんだか不思議なんだ。
 読んだ先からどんどん頭に入ってくる。
 まるで空っぽの部屋に荷物を詰め込んでいるみたいに。
女 もうそんなに読み進んだのね。
男 これは二回目だよ。
 最初は言われたとおりに読んで憶えただけで、いまはそれを確認
 しているんだ。
 それにしても、こんなに物覚えがよかったかな……。
女 本当に部屋が空っぽになったからじゃない?
男 え。
女 あなたの心と体。
 整理されてすっかりきれいになったから憶えやすいんじゃないか
 しら。

    男、本に意識を戻す。
    女、しばしその様子を眺めている。

女 出かけてくるわ。
男 どこまで?
女 泉よ。
 水を汲みにね。
男 遠いの?
女 少しね。
 三日もあれば戻って来れるわ。
男 三日か……。
 遠いな。

    沈黙。

女 あなたならどうかしら?
 自分ならすぐに戻れるって思えたりする?
男 いや、どうかな……。
女 自信あるんじゃない?
男 でも泉の場所を知らない。
女 そんなの必要ないのかもしれない。
 泉がどこにあるかなんて。
男 え。
女 わざわざ行かなくてもね。
 そう思えない?
 そんな気がするってだけでもいいの。
 どう?
男 どうって……?
女 そこに書いてあったでしょ?
 多くの人々の助けになったって話よ。
 泉のある場所まで何日もかけて水を求める人たちに。
 年老いて山羊や羊を扱うことが困難になった人たちにも。
 奇跡が起きたでしょ。  
 まるで水瓶の底から湧き出すように水が満たされたって。
 水だけじゃなく、山羊や羊の乳だってね。
 彼らを手懐けたり餌場に導いたりすることなく搾乳缶を満たすこ
 とが出来たって。
男 ああ、読んだよ。
 そう書いてあった。
 でもそれは本の中の話だし。
女 ねえ、教典は物語じゃないのよ。
 憶えるためだけに読むんじゃなくて、我がことだと思って読んで。
 そして少しずつでいいから自覚して欲しいの。
男 我がことって……。
女 そういう自覚と認識。
 頭で自覚して、体で認識するの。
 頭に入ったことが体現出来るって信じればいずれそうなるから。
男 いや、でも……。
女 こう考えることは出来ない?
 教典にはあなたを作った人のことが書かれているって。
 それでね、あなたは……。
男 ちょっと待って。
 オレを作った?
女 ええ、そう考えるのは無理かしら?
男 いや……。
女 腑に落ちない?
 違和感がある?
男 だって、いくらなんでも……。
 オレはそんな……。
女 そんな、なに?
男 オレは……。
女 ええ、あなたは?
 そんなはずはない?
男 あ、ああ……。
女 その根拠は?
男 え。
女 じゃあどこから来たの?
 どこで生まれたの?

    沈黙。

女 うん?
男 それは、だから……。
女 ええ、なに?
男 いや、それは……。
女 ああ、無理に思い出さなくていいわ。
 貸して。

    女、教典を受け取る。

女 混乱させちゃったみたいね。
 ごめんなさい。
 わざわざ言うことじゃなかったわ。
 あなたはその方の能力を受け継いでいるんだから。
 素養は備わっているの。
 その気になれば自然に心と体に宿っていくと思うわ。

    沈黙。

女 ね。
男 その気になれば、か……。
女 難しく考えないでね。
 焦らずにゆっくりでいいから。

    男、教典を受け取る。

女 これ、どうぞ。
 とっても栄養があるの。
男 ああ、うん。

    男、ナツメラの実を手に取って
    口に入れる。
    座って本に意識を戻す。

    明り、ゆっくりと絞られる。
    やがて暗転。





    〈第6場〉

    明転。
    前場と同じ場所。

    男、教典を閉じ、虚空を眺めている。
    やがて女、現われる。

女 どうかした?
男 うん、ちょっと……。
女 行き詰まっちゃったの?
男 いや、これを読み返そうと思ったら読めなくなったんだ。
女 読めない?
男 まるでなにも書かれていないみたいに。
 字がひとつも読めない。
 いや、見えない……。
女 ずいぶん読んだんじゃない?
男 うん、もう何十回と読んだよ。
女 じゃあその本はもう空っぽなのよ。
 あなたの中にすべて入ったから。
 全部憶えちゃったでしょ?
男 ああ、うん。
女 我がことだっていう自覚と認識も出来たのかしらね?
男 まあ、そうなのかな……。

    沈黙。

男 水を汲みに行くんじゃないの?
女 もう行って来たわ。
男 もう?
 だって……。
女 だってなに?
男 三日かかるって。
女 ええ、そうよ。
 三日かかったわ。
男 え。

    沈黙。

男 あれから三日か……。
女 すごく集中していたみたいね。
 ナツメラの実ってとっても滋養になるから。
男 水は汲めたの?
女 うぅん、駄目だった。
 汲めなかったわ。
男 どうして?
女 泉が涸れちゃってたから。

    沈黙。

女 残念だったわ。
男 だろうね。
 三日もかけて……。
女 帰り道でお年寄りに声をかけられたの。
 水を少し分けてもらえないかって。
 それが出来なかったことがね。
男 ああ……。
女 そのあとに盗賊に逢ったの。
 持ってる水をよこせって。
 だからもし水が汲めたとしても結果は同じね。
 奪われたでしょうから。
男 いや、でも同じじゃない。
 盗賊に水を盗られる前に年寄りに分けてやれただろうから。

    沈黙。

女 出かけてくる。
男 どこに?
女 ほかの泉を探しに。
男 オレが行こうか。
女 うぅん、あなたはここで祈っていて。
 ほかに泉が見つかりますようにって。
 その方がうまくいくと思うわ。

    女、去る。
    男、立ち上がり、目を閉じて何事か
    呟きながら祈る。

    沈黙。

    男、教典を手に取り、しばし表紙を
    眺めている。
    やがて女が水瓶を抱えて戻る。
    
女 見て。
 こんなに。

    水が満たされている。

男 え。
女 これ、ね、すごいでしょ?

    男、水瓶の中をのぞき込む。

男 どうしたの?
女 歩き始めたらどんどん水瓶が重くなっていって……。
 間もなくいっぱいになったの。
 あなたが祈ってくれたおかげよ。
 三日間の道のりが報われますようにって。
 そう祈ってくれてたんでしょ?
男 あ、ああ……。
 でも本当にそんな……?
女 そうよ、つまり、自覚が出来てしっかり認識された証拠ね。
 少しは自信がついたんじゃない?
男 ああ、うん、まあ……。
女 じゃあもう一度お願いね。
男 え。
女 出かけてくるから。
男 どこに?
女 水を分けてあげに。
 だから祈って。
 お年寄りに逢えるようにって。
 狼や盗賊に逢わないようにって。
 ね。
男 あ、ああ……。

    女、去る。
    男、立ち尽くしていたが、我にかえった
    ように目を閉じて何事か呟きながら祈る。

    明り、ゆっくりと絞られる。
    やがて暗転。





    〈第7場〉

    明転。
    前場と同じ場所。

    男、白い麻布の服に袖を通している。
    しばしの間ののち、女、羊の乳の入った
    壺とカップを持って現われテーブルの上
    に置く。

女 上まで留めてね。

    女、去る。
    男、服のボタンを留めている。
    やがて、女、ペンダントを持って戻る。

女 これ。
 いい?
男 うん?

    女、ペンダントを男の首にかける。

女 犠牲と復活の象徴よ。

    男、ペンダントトップを手に取って
    見る。
    女、男に向かって祈る。

女 着心地は?
男 うん、いい。

   女、壺を持ってカップに注ぐ。

女 羊の乳よ。
 助かるわ。
 あなたが祈ってくれたおかげ。
 なにも手を煩わせることなくこうして……。
 どうぞ。
男 こうして……?
女 ええ、搾乳缶の底から湧き上がるみたいにね。
男 まるで魔法だな。

    男、飲む。

女 でもあなたは魔法使いなんかじゃないわ。
男 うん、そんなわけない。
女 救世主。
 自覚と認識。
 忘れてないでしょ?
男 あ、ああ……。

    男、飲む。

女 いつもだったら今月は風の月なの。
 目が開けていられないくらい強い風が毎日のように吹き続けるの
 よ。
 でもあなたのお祈りのおかげで今日も外は穏やかだわ。
男 本当に祈りのせいかな……?
女 試しにお祈りをやめたりしないでね。
 急に大風が吹き荒れたりしたら大変だもの。

    男、飲む。

女 ありがたいわ。
 こんな時期でも外に出られるなんて……。
 ねえ、相談をうけたんだけどね、農場を作るにはどの方角がいい
 と思う?
男 方角……?
女 そういう聞き方はよくなかったわね。
 えーっと、そう……。
 あっちの方角に農場に適した場所が見つかるようにお祈りして
 もらえないかしら?
 
    女、手を上げて指し示す。

男 あ、ああ……。
女 あ。

    女、訪問者の気配を感じ、去る。
    男、目を閉じて何ごとか呟きながら
    祈る。
    しばしの間ののち、女、いくつかの
    封筒を持って戻る。

女 郵便屋さんだったわ。
男 こんなところに?
女 そうよ、ロバの郵便屋さんが届けに来てくれるの。

    女、開封する。

女 あら、これ……。
 あなたに伝えて欲しいって。
男 オレに……?
女 ええ、親愛なる救世主様にどうかお伝えくださいって……。
男 一体誰が……?
女 あなたが知らなくてもむこうは知っているのよ。
 水瓶のことや羊の乳やこの風のことだってね、私が触れ回ってい
 るから。
 砂漠って広いけれど意外と伝わるのは早いの。
男 へえ、参ったな。
女 参ることないわ。
 頼りにされているんだもの。
 じゃあご希望どおりに、えーっと……。
 駄文でお恥ずかしいのですが何卒ご容赦ください。
 親愛なる救世主様。
 私は日々野獣や盗賊を恐れながら暮らしている貧しい、そして愚
 かな羊飼いです。
 羊たちを首尾良く餌場に誘うことが出来ず、毎度群れを迷わせ疲
 れさせた挙げ句、やっと見つけた牧草地では加減を知らない羊た
 ちに草が絶えるまで食べさせ、他の羊飼いに迷惑をかけてしまう
 始末です。
 どうかこんな私めに励ましを、そして羊飼いとして生き抜くため
 の知恵と能力をお授けくださいませ。
 どうか。

    沈黙。

女 どうか。
男 あ、ああ……。
 え、知恵となんだっけ?
女 励ましと知恵と能力よ。
男 そうか……。
 それを授けるっていうと……?
 えーっと、やっぱり祈るってことかな?
女 ええ、そうね、そうしてあげて。

    男、目を閉じて何ごとか呟き
    ながら祈る。

女 主の力添えが必ずあるはずって、私が返事を書いておくわ。
 じゃあ次ね。

    女、べつの封筒を開ける。

女 恐れ多いことと存じますが、お伝えいただけますことを切に願
 う所存です。
 えーっと……。
 我が救世主様。
 罪深き私をどうかお許しください。
 私は先般の断食期間中にこっそり豆のスープを食してしまいまし
 た。
 しかもこれが初めてではありません。
 お恥ずかしい話ですが、正直申し上げますと、ほぼ毎度のように
 愚行を繰り返しておりました。
 頭でわかっていても行動を律することが出来ない自分のなんと情
 けないことでしょうか。
 神が定めた神聖なる儀式を冒涜した私にどうか寛容なる慈愛の力
 で正しいお導きを、どうか。
 どうか、私めに。

    沈黙。

女 どうか。
男 うん、そうか、断食ね……。
女 ええ、愛ある戒めと指導を。
男 頭ではわかっているんだから、実行出来ればいいんだろうけど
 ……。
女 そういうことよね。
男 うん、まあ、これも祈るよ。
 そう自分を律することが出来るようにと……。 

    男、目を閉じて何ごとが呟き
    ながら祈る。

女 主の力添えが必ずあるはずって、私から返しておくわ。
 じゃあ次ね。

    女、べつの封筒を開ける。

女 救世主様のお耳に届きますよう何卒お取り計らいのほどを……。 
 私はいま井戸を掘っています。
 ずいぶん深く掘ったつもりですが、まだ目的を果たしておりませ
 ん。

    明り、ゆっくりと絞られる。
    女、手紙を読み続けている。

女 気力も体力もそろそろ尽きかけております。
 このあたりで水が出てほしいのですが……。
 気弱で非力な私めにどうかやり抜くだけの根気と胆力をお授けく
 ださいますよう……。
 
    やがて暗転。





    〈第8場〉

    明転。
    前場と同じ場所。

    テーブルの上に未開封の手紙と開封
    の済んだ手紙が分けて置かれている。
    男、手紙を持ちながら祈っている。
    しばしの間ののち女、布袋を持って
    現われる。

女 見て。
 こんなにたくさん。
 ほら。

    女、布袋の中からナツメラの実を
    摘まんで見せる。

男 へえ、それが生のナツメラの実か……。
女 そうよ、こんなところにっていう場所で見つけたの。
 あなたのお導きのおかげ。
男 導き?
女 言ったじゃない?
 風の道を行けって。
 だから言われたとおりにしたわ。
 気がつかなかったけど、風にも道があるのね。
 その道を辿ったら立派なナツメラの木があったの。
男 風の道……。
 そんなこと言ったかな……。
女 覚えがない?
 じゃあ天から預かったのよ。
 そしてあなたの心を介して私に伝わったの。

    沈黙。

女 あ。

    女、訪問者の気配を感じ、布袋を置
    いて去る。
    しばしの間ののち、女、べつの袋を
    持って戻る。

女 お礼ですって。
 わざわざ持ってきてくれたの。
男 お礼……?
女 ほら、少しでも雨が降れば助かるってお願いされて、祈って
 あげたでしょ。
 そのお礼としてのおすそ分け。
 ひよこ豆って言ってたわ。
男 じゃあお礼を言った方がよかったかな?
女 そんなのおかしいわ。
 だってあなたは救世主なのよ。
男 だから?
女 救世主がお礼のお礼を言うなんて変でしょ?
男 そういうものかな……。
女 そういうものよ。

    沈黙。

男 それにしても、いろいろな願いに祈っているとどれがどれだっ
 たか……。
女 仕方ないわよ。
 たくさんのお願い事を受けているんだもの。
 それがあなたの努めだし、これからだってもっと多くのお願いが
 届くでしょうしね。
男 もっと多くのか……。
女 ええ、もっともっと。
男 そんなに叶えられるかな?

    女、豆を手で掬って見る。

女 大丈夫よ。
 あなたはもういくつかの奇跡を起こしたわ。
 みんな知っているの。
 認められているのよ。

    女、豆を少しずつ袋に落とす。

女 あなたは公平に祈るだけ。
 そして人々はちゃんと悟っているはずよ。

    女、残った豆を掲げる。

女 祈りが通じればご加護が受けられるはずで、叶わなければ祈り
 が足りなかったということだとね。

    女、手をやや高く上げてから
    豆を袋に落とす。

男 求める者の祈り次第ってことか……。
女 ええ、だからみんな心を込めて祈りを捧げ続けるでしょうね。
 あら、また……。

    女、訪問者の気配を感じて去る。

    しばしの間ののち、女、布袋と
    いくつかの封筒を持って戻る。

女 ロバの郵便屋さんだった。

    女、封筒をテーブルの未開封の
    方の山に積む。

女 それからこれ。

    女、布袋を見せる。

女 行商の人から預かったって。
男 行商?
女 忘れちゃった?
 市場を目指していた人よ。
 その途中であなたへの伝言をロバの郵便屋さんに託した……。
男 ああ、そうだっけ……?
女 ほら、主の力添えが必ずあるはずって、すぐに郵便屋さんに伝
 言を返したでしょ?

    女、布袋を開けて手を入れる。

女 カカオだわ。
 カカオ豆。
 これもお礼ってこと?
 無事に市場に辿り着けたみたいね。
 あ。

    女、布袋の中から手紙を取り出す。

女 えーっと……。
 親愛なる救世主様。
 このたびは格別なるご加護を賜り、感謝の念に堪えません。
 常に救世主様が見守ってくださっていると思うと勇気が湧き、自
 信が漲って参ります。
 心持ちひとつでこんなにも変るものかと、これはひとえに救世主
 様のお支えがあってのこと、なんと心強いことでしょう……。

    女、手紙を置く。

女 あなたの言葉ひとつでこんなに変るのね。
男 でもいつもうまくいくとは限らない。
 もしなんらかの受難に見舞われたら、どうだろう……。
女 さっき言ったでしょ。
 祈りが通じればご加護が受けられるはずで、叶わなければ祈りが
 足りなかったと悟るはずって。
男 そんなふうにいつも折り合いがつくかな。
女 ねえ、あなたを救世主と崇めている人たちはみんなあなたを信
 じているのよ。
 そんな簡単に諦めたり心変わりすると思う?
男 それは……。
女 あなたは、あなたを信じている人たちより更に大きな心で信じ
 てあげなくてはいけないんじゃない?

    女、豆の入った袋を集める。

女 出かけてくるわ。
男 どこへ?
女 これを配りに。
 必要としている人たちのところへ。

    女、去る。
    男、テーブルの山を見つめながら
    何事か思案する。
    
    明り、ゆっくりと絞られる。
    やがて、暗転。





    〈第9場〉

    明転。
    前場と同じ場所。

    両方の手紙の山が更に積み上がっ
    ている。
    男、目を閉じて座っている。
    しばしの間ののち、女、いくつか
    の封筒を持って現われる。


女 お疲れのようね。
男 あ、いや……。
女 この前収穫したナツメラの実はもう少しで食べられると思うわ。
男 ああ……。

    男、背もたれから体を起こす。

女 いいのよ、休んでいて。
男 うん。
 もしかして、それも?
女 たったいま届いたの。

    女、封筒をテーブルに置く。

女 また新しい山が出来ちゃいそう。
男 ああ、どんどん増えていく……。
女 この頃のお願い事の中には弟子にして欲しいっていうのもある
 の。
男 弟子ねぇ……。
女 しかも盗賊からとかね。
男 え。

    女、開封済みの中から選び出す。

女 自分は人様の荷や金品を奪う盗賊です。
 定住は持たず、その時々の気分だけで刹那に生きてきました。
 しかし、これからの人生を善人としてやり直したいのです。
 悪行をし尽くしておいてムシがいいのは重々承知の上ですが、何
 卒ご理解を賜りますよう、そして、どうかこの私めを弟子にして
 いただけないでしょうか。
 どうか。

    沈黙。

女 どうか。
男 あ、ああ、しかし盗賊じゃあな……。
女 でもせっかく心を入れ替えようとしているのよ。
 考えてあげてもいいんじゃない?
男 うん、まあ、それもそうか。
 でも弟子にするって、どうすれば……?
女 なんの手続きも儀式もいらないわ。
 ただ認めてあげるだけでいいの。
 弟子にしてあげたら日に三度、あなたに祈りを捧げることになる
 ってだけ。
男 へえ、じゃあ、まあ……。
女 弟子の志願者はほかにもあったの。
 寄宿舎から届いた手紙には連名で十数人の名前が記されていたわ。
男 そんなに?
女 いい?
 認めてあげて。
男 そうだな……。
女 断る理由もないものね。
 それから名付けのお願いもあったの。
男 名付け?
女 無事に長男を産むことが出来た感謝と名付けのお願いがね。
 ぜひ末永く幸多き道を歩める名前を、どうかお授けになってくだ
 さいませって。
男 オレが名前を……?
女 ええ、末永く幸多き道を歩めそうなのをね。
男 そんなこと言われても……。
 どんなのだろ?
 たとえば……?

    女、首を傾げる。

男 幸多き道を歩める名……。
 幸多き道……。
 幸ねえ……。
 うーん……。
 あ、男だっけ?
女 そう、名付けのお願いはほかにもあって、そちらは女の子よ。
 しかも双子ですって。
男 ちょっと待って、じゃあ三人……?
女 それに子羊の分もね。
男 え、羊?
女 先週三頭の子羊が生まれたんですって。
 この子羊たちそれぞれに愛らしい名前をどうかって。
男 参ったな。
女 まだまだほかにもたくさんのお願い事があるから、聞いてもら
 わなきゃね。

    女、開封済みの山からいくつかの
    手紙を取り出す。

男 ああ、そうだな、まずはそっちから手をつけるか……。
女 じゃあ読むわね。
男 ちょっと待って。
 まとめて祈ってもいいかな?
女 え。
 まとめて……?
男 うん、増える一方だし、それにけっこう疲れてきたし……。
 駄目かな?
 そんなのじゃあ。
女 いいわ、心を込めて祈ってくれるのなら。

    男、ゆっくりと腰を上げるが、
    ふらつく。

男 おっと……。
女 大丈夫?
男 あ、ああ……。

    男、尻餅をつくように椅子に座る。

男 はは、どうしちゃったんだろ?

    男、再び腰を上げかけるが
    よろめいて座る。

女 無理しないで
男 祈るよ。
 祈るけど、少し時間が欲しいんだ。
女 ええ、もちろん。
 たくさんの人の期待に応えるって大変よね。

    男、椅子に深く座って目を閉じる。

男 少しだけ、少しだけ休んだら、また……。
女 ええ、そうね、いいのよ。
男 少しだけ……。

    女、男の様子を見守っている。
    やがて男、小さく寝息をたてて眠る。

    女、訪問者の気配を感じて去る。
    
    しばしの間ののち女、汚れた服(囚人服)
    を持って戻る。

    女、持っている服と眠っている男の
    姿を交互に見ながら何事かを思案し
    ている。
    
    明り、ゆっくりと絞られる。
    やがて、暗転。





    〈第10場〉

    明転。
    前場と同じ場所。
    手紙の山は半分程度に減っている。

    男、眠っている。
    女、本の背中部分を糸で綴じている。
    やがて男、目を覚ます。

男 ああ……。
 またいつの間にか眠ってた。
女 いいのよ、休んでいて。
 ここのところずいぶん根を詰めていたものね。
男 うん?
 それは?
女 本を作っているの。
 でもまだ空っぽ。
男 え。
女 真っ白だから。
 ほら。

    女、本を捲って見せる。

女 これから書くの。
 そうすればちゃんとした本になるわ。
男 書くって誰が?
女 誰って言うか……。
 よくわからないけど、恐らく一人じゃないと思うの。
 あなたの弟子と、その知り合いとか、そのまた知り合いとかね。 
 そんなかんじになると思うわ。
男 一体なんの本なんだ?
女 あなたに関する本よ。
 あなたが起こしたこと。
 及ぼした影響。
 変化した状況とかね。
男 それを知らない誰かしらが書くんだ……?
女 こういうのって本人が書くものじゃないし、周辺の人が人に伝
 えて、更にその人がまたべつの人に伝えてっていうように、口伝
 えで少しずつ形作られていく方が教典として相応しいと思うの。
男 え、教典……?
女 必要になってくるでしょうから。
 これから多くの人に勇気や希望を与えるためにね。
男 いや、でもオレがなにか教えを説いたりしたかな……。
女 そんな覚えはない?
 でもそれは相手の捉え方次第よ。
 きっとこうおっしゃったのだろう。
 きっとこういう意味なのだろう。
 きっとこう望まれているのだろう。
 って。
男 だけど、それ本当に必要かな?
 そんな新装版の教典のようなものが。
女 既にあるものを改めたり下敷きにするんじゃなくて、はじめて
 生まれるものにしたいの。
 唯一無二のものにね。
男 でも世の中には唯一無二の神がすでにいくつもある。
 これ以上増やしてどうするんだ?
女 うぅん、唯一無二の教典にしたいって言ったの。
 人はそれぞれ世界に一人だけでしょ?
 だから信仰対象もそれぞれ自分の中にある。
 つまり、みんな違うけど信じる心は同じ。
 そういう手引き書になればって……。
 教典の目的はそこだと栞に書いて挟んだの。
男 ひとりずつ、つまり徒党を組まずに……。
 うまくいけば尊重し合えるってわけかな。
女 あなたいいこと言ったわ。
 唯一無二は個人の中にある。
 それぞれが信じるものを持ち、互いに尊重し合う。
男 そっちが言ったんだろ?
女 うぅん、あなたが導いたのよ。
 押しつけず、干渉せず……。
男 競わず、争わず、か……。
女 あ、そう言えばね、ちょっと挑発的な手紙が届いていたの。
 えーっと……。

    女、手元の封筒を開ける。

女 我こそは真の救世主なり。
 貴殿の起こす奇跡の噂はまことなのか、特段懐疑的ではない私で
 さえいささか疑問に思うところであり、ぜひお手並みをこの目で
 拝ませていただきたい。
 私より数段勝る奇跡を……。
 ですって。
男 真の救世主か……。
 自分でそう思っているならそれでいいだろう。
 なにも張り合わなくたって……。
女 そうよね。
 恐らく極度に優越意識が高い人物なのか、あるいはただの妄想家
 か……。
 こういうのってこれからももっと増えるでしょうけど、いちいち気にしないでね。
 
    女、綴じ終えた本を封入する。 

男 でもどうしてオレだったんだろう?
女 なんのこと?
男 救世主。
 何度も聞いたような気がしたけど……。
女 ええ、何度も聞かれたし、答えたわ。
 あなたの頭の中って教典意外にはまるで記憶の余地がないみたい
 ね。

    沈黙。

女 待っていたから。
 僅かな希望として。
男 希望か……。
女 そう、とってもとっても僅かなね。
 そして来たの。
 あなたが。
 あったでしょ?
 教典の最後の一節に。
 復活の時。
 救世主は突然現われる。
 それは四度目の新月が確認された翌朝の最初の訪問者として。
 一見すると隠者というより粗暴さを感じさせるような風体。
 自分が救世主だという自覚は露ほどもなく、神の存在を畏れる様
 子もない。
 そして、新たなる日の訪れを示す花、変革の象徴である薔薇を携
 えていた。
 って。
 四度目の新月の翌朝、断食が終わる当日。
 すべてそのとおりにあなたはここに来たの。
男 偶然か必然か……。
 ふふ。
 薔薇の花まで持って……。
女 教典の冒頭の一節。
 偶然は必然をも凌ぐ力を持つ。
 それはしばしば一番肝心なときに起こりうる。
男 確かにそう書いてあった。
女 そしてまた最後の一節。
 救世主は自分の身を悟られないように振る舞っているのか、本当
 に自覚がないのか、人々には見当がつかなかった。
 しかし、献上された聖杯に口をつけるとにわかにその本性を現さ
 れた。
 同じ世が繰り返されないように。
 復活の意味はそこにあると望まれていた。
 しかし、それを人々が悟るには更なる時間を要するであろう。

    沈黙。

女 もしだたの偶然だったとしても、それで終わらせたくなかった
 し……。
男 よくわからないけど、まあ、いいのかな……。
女 なにがどういいの?
男 未だに見えない塔の見えない階段を上がっているような、足元
 がおぼつかない感じがあって……。
 なんなんだろうって考えるけど、どうにも頭がぼやけていて、ま
 あいいかって……。
 深く考えることが出来ないんだ。
女 あなたの感覚はあなたしかわからないけど、きっといまに落ち
 着いてくるわ。
 ねえ、こちらから赴いて祈って欲しいって要望があったら叶えて
 あげられる?
男 どこからかそんな話が?
女 ええ、戦災孤児院だったり、養老院だったりとかね。
 それから神殿跡というのもあったわ。
男 神殿跡……?
女 宗派争いに巻き込まれた人たちのお墓になっているところ。
 多くの人が集まる巡礼の拠点よ。
 どう?
男 ああ、それはいいけど……。
 なにぶん初めてだし……。
女 それは首尾良くいくかってことで?
男 うん、まあ……。
女 もしかして迷子になるんじゃないかとか?
 大丈夫よ。
 どこに行くにしても案内人を寄越すはずだから。
 救世主が道に迷うなんて笑い話になるものね。
 ふふふ。
 じゃあ行ってくるわね。
 集配所まで、これを出しに。
男 あ、ああ……。

    女、封を持って去る。
    男、不安げな様子で女の去った方向
    を見ている。

    明りゆっくりと絞られる。
    やがて、暗転。





    〈第11場〉

    明転。
    前場と同じ場所。
    手紙の山はほぼ片付いている。
    
    男、目前の燭台に向かって気持ちを
    込めていたが、やがて諦めて呆然と
    している。

    しばしの間ののち、女、現われる。
    花瓶を手に取り薔薇の花を見ながら
    何事が思案している。
    薔薇は盛りを過ぎている。

    女が去ろうとしたところで男が声
    をかける。

男 さっき……。
女 え。
男 見えたんだよ。
 少しだけ火が。
 ほんの一瞬点いて消えたんだ。
女 へえ。

    男、燭台に向かって気持ちを込める。
    変化ないまま時間が経過する。
    男と女、見合わせる。

女 ええ、きっとそうね。
 信じるわ。

    男、燭台を退け水瓶を目前に置いて
    気持ちを込める。

    女、立ち尽くしている。
    やがて男、諦める。

男 ふふ。
女 どうかした?
男 うん?
女 私の留守中になにかあった?
男 いや……。
 ただ誰かがドアを叩いた。
女 誰?
男 さあ、わからない。
 出なかったから。
女 郵便屋さんかしらね。
男 郵便屋ならあんなに何度も叩かないだろうな。
女 そんなに何度も?
男 誰かがオレを試したくて来たんじゃないのかな。
 救世主の化けの皮を剥がそうと……。
女 それでなに?
 奇跡を起こす特訓?

    沈黙。

女 あ。
男 え。
女 聞こえたでしょ?
男 誰か来た?
女 きっと郵便屋さんよ。

    女、去る。
    しばしの間ののち、いくつかの封筒
    を持って戻る。

女 やっぱりね。

    女、開封する。

女 ねえ、赴いて欲しいって要望があったら叶えてあげられるって
 言ったでしょ?
 この手紙もそうなの。
 ご来臨いただく願いは叶いますでしょうかって。
男 へえ、で、どこから?
女 収容所ですって。
男 え。
女 砂漠の向こう、北の果て……。
 わかる?
男 なんだって言うんだ?
女 それが、懺悔としか……。
男 懺悔……?
女 ええ、したいって。
 それだけよ。
 聴聞をお願いしたいって。
女 収容所ってずいぶん遠いみたいね。
男 ああ、何日も夜を徹して歩いたって辿り着けるような場所
 じゃない。

    沈黙。

男 一体誰がなにを悔い改めるというんだ……。
 今更なにを。

    男、手紙を取り上げ、テーブルに
    叩きつける。

女 収容所ってそんなに救いようがないところ?
男 ああ……。
 地獄さ。
 いや、悪行を為した者が罰を受けるところが地獄だとすれば……。
 もっと悲惨な最上級の地獄だよ。

    沈黙。

女 その地獄の番人に恩情は無用ってこと?
男 恩情……?
 なんて場違いな言葉だろう。
女 もし、その悲惨な場所の状況になにがしかの変化が見込めたと
 しても看過できる?
男 どんな変化が見込めるっていうんだ?
女 わからないけど、ただ、任務自体に疑問を感じたり、罪悪感に苛
 まれたりしている人がいることは理解してあげてもいいかと思っ
 たの。
男 理解……?
女 せめて遠くから祈ってあげるっていうだけでも……。
男 それでなにがどうなる?
 かいかぶるな。
 オレになにが出来る?
女 どうしたの?
 そんなに昂ぶって……。

    沈黙。

女 ずいぶん詳しいのね。
 その収容所ってところについて。
男 なにが言いたいんだ?
女 なにも。
 そう思っただけよ。
 おかしかった?

    沈黙。

女 いくら救世主だって飛んでいけるわけじゃないものね。
 それに体はひとつしかないし……。

    女、ほかの手紙を開封する。
    その文面に目を奪われる。

男 うん?
女 うぅん……。
男 どうかした?
女 信仰の本拠を作る計画が持ち上がっているそうよ。
男 なんだそれ?
 信仰の本拠……?
女 ええ……。
 救世主様が世に現われて久しくも、未だ神殿を築けずにいるとい
 うのは我々の信仰心が足りないのではという疑念と反省があり、
 また、将来、我が信仰に敵対する勢力が現われた際に抗戦に絶え
 うる堅牢な、救世主様をお守りするに相応しい神殿が必要であり
 ましょう。その建設を早急に着手すべきと信者一同の意見が一致
 し、いままさに聖地となる土地選びを開始した次第でございます。
 ですって。
男 抗戦に絶えうる堅牢な、か……。
 まあ、本気にすることもないのかな。
 信者一同なんて言ってるけど、おべっか使いの戯れ言か、軽い冗
 談ということもあるし。
女 違うわ。
 これは郵便屋さんから受け取ったものだから。
男 うん?
女 あ、うぅん、だって冗談でいうようなことじゃないわ。
 そうでしょ?
 そう思わない?

    沈黙。

男 信仰と争いごとは卵とニワトリのように縁深いのが常みたいだ
 な。
女 残念ながらね。
男 いよいよ塔の更に高いところ、尖塔の先にまで登ったような気
 がしてきた。
女 その居心地は……?
 よくはなさそうね?
男 ああ、まあ……。
 そろそろ降りた方がよさそうな気もする。
女 ごめんなさいね。
男 え。
女 ゆっくり降りてきて。
 足元に気をつけてね。

    沈黙。

女 ねえ、あなたの待ち合わせをした人って、ついぞ現われないわ
 ね。
男 え。
女 そう言ったじゃない?
 待ち合わせをしたんだって。
男 あ、ああ、そう……。
女 なに、言われて思い出したみたいに。
男 いや、べつに……。
女 もしかしてただの口実だったのかしら?
男 だとしたら?
 最初から受入れなかった……?
女 うぅん、ただ逗留を許していた理由が欲しいかなって思って。
 だってここは宿屋じゃないんだもの。

    沈黙。

男 ただの思いつきだよ。
 待ち合わせなんかしていない。
女 そう、いいのよ。
 でもどうして?
 たくさん歩いて休みたくなっちゃった?
男 ああ、疲れていたし……。
 待ち合わせって言ったのは、なんとなくその方がいいような気が
 しただけで……。
女 かえって悪かったわね。
 余計に疲れさせちゃって。
男 いや……。
 オレも少し長居しすぎたと思っていた。

    男、花瓶の薔薇を抜き、眺めている。
    女、男の手から花を取り上げ、花と
    男を交互に見る。

    明りゆっくりと絞られる。
    やがて、暗転。





    〈第12場〉

    明転。
    前場と同じ場所。

    花瓶に代わり水を張ったガラスの器が
    あり、薔薇の花びらが浮かんでいる。

    女、顔をベールで覆い、一方向に向か
    い立ち尽くしている。
    手元近くに布包みが置かれている。

    しばしの間ののち、男、女の向いて
    いる方向から現われる。

女 あらもう?
 もしかして旅は中止?
男 いや……。
女 じゃあ忘れ物かしら?
 はい、これ。(手元の布包み)
男 収容所から使い手が来た。
 制服でわかる。
女 え。
 収容所?
男 こっちに向かってる。
女 うそ。
 きっと見間違いよ。

    男、包みを開ける。

女 どうするの?
 戦うつもり?
男 撃ち殺すしかないだろう。

    男、拳銃に銃弾をこめる。

女 やめて!
 そんなわけないもの。

    沈黙。

女 見てくるわ。

    女、出て行こうとするが男が腕を
    掴んで引き留める。

女 だって……。
男 気が変った。
 ここに籠城する。

    男、拳銃のシリンダーを左右に
    回しながら調節する。

女 使えないんじゃなかった?
男 試してもいい。

    男、拳銃をテーブルに置く。

男 さあ。
女 さあって……。
男 どうせ撃ち殺されるだろう。
 それなら同じことだし。
 誰に撃たれようがさ。
女 なに言ってるの……?

    沈黙。

男 ふふ、取り消すよ。
 奴等に撃たれるのだけは御免だな。
 だから、その前に頼むよ。
女 馬鹿なこといわないで。
男 ふふふ。

    男、拳銃を手に取る。

男 じゃあ人質になるっていうのは……?
 少しでも抵抗して遊んでやるのも一興かもしれないな。

    男、一瞬銃口を女に向ける。

男 扉が開くと同時に撃ってくるかもしれない。
 最悪の場合は道連れになる。
女 まあ、その時はその時ね。

    女、椅子に座る。

男 余裕だな。
 その理由はオレが見間違えているという確信があるからか、も
 しくはオレがうそをついているのを見抜いたから、なのか……。
女 どちらでもいいんじゃない?
 結局のところ同じなんだし。
男 うん、そう、どちらにしても刺客は来ない。
 ちょっと芝居が下手過ぎたかな、ふふ。
女 ええ、で、その小芝居はなんのつもりだったの?
 私への仕返しかなにか?
男 仕返しするような目にはあってないけど……。
 まあ、冗談にしてはちょっときつかったかな?
女 そうね、半分本気にしちゃった。
 悔しいけれど。
男 半分か……。
 オレもそんな感じだったよ。
女 え。
男 少しずつ記憶が戻りはじめるのと引き換えみたいに、あんたの
 巧みな演出にのせられて……。
 自分に不思議な能力が備わったのかなんて、その気になったりし
 て……。
女 言ったと思うけど、もしただの偶然だったとしても、それだけ
 で終わらせたくなかったから……。
男 いいよ、おかげでふわふわとした夢まぼろしのような奇妙な感
 覚を味わえたし。
女 もう、すっかり?
男 ああ、わりと長く頭の隅が朦朧としていたけど……。
 あの酒にはなにか薬でも入っていたのかな?
女 ええ、ただ、薬が入っているんじゃなくて、薬のようなお酒って
 ことなんだけどね。
男 あんたが読む手紙もしばらくは本気にしていた。
 ほとんどは創作だろ?
 届いた郵便物にうまく紛れさせて……。
女 ええ、まあ、そうね、察しの通りよ。
 でも感謝の手紙や弟子になりたいとか、名付けのお願いは本当よ。
 それから神殿を作るっていうのもね。
男 ああ、それだけはほかの手紙とは読むトーンが明らかに違うの
 がわかったよ。
女 だって抗戦に耐えうる堅牢な神殿なんて……。
男 信仰依存の悪癖かな。
 危惧するのもわかる。
 それにしても収容所からっていうのはまんまと騙された。
女 ごめんなさいね。
 あなたの反応を知りたかったの。
 もしかして復讐するなんて考えてやしないかって……。
男 考えてみればあり得ない。
 あそこには郵便物に対する厳しい検閲がある。 
 懺悔なんて……。
 でもどうしてオレが収容所から来たってわかったんだ?
女 囚人服を脱ぎ捨てたでしょ?
 それが届いたの。
男 届いた?
 一体どこから誰が?
女 ラクダの郵便屋さんよ。
男 え。
女 ラクダの長距離郵便。
 知らない?
 ラクダって意外に鼻が利くの。
 わざわざ匂いを頼りにここまで届けてくれたの。
男 オレを捕まえたくて?
女 私のことを心配してくれたわ。
 もしかして人質にとられて籠城でもしているんじゃないかと思っ
 たって。
 だから言ったの。
 ご心配ありがとう。
 その人なら私の手のひらの上よって。
男 ふふふ、なるほど。
 でもそのラクダの郵便屋が心配したとおり籠城してるけど……。
女 本当ね。
 ねえ、あなたは殺されたくなくて逃げてきたの?
 それとも殺したくなくて逃げてきたの?

    沈黙。

男 最初は殺される側だった。
 その予定に入っていた。
 でもいろいろな巡り合わせで殺す方に回された。
女 いろいろ……?
男 オレは設計士だったんだ。
 いや、設計士と言っても狩猟用の銃に限ってだけど。
 銃の設計、製造、修理が出来る。
 作る方も治す方も手が足りなかったから、その腕を買われたんだ。
女 助かったのね。
男 ああ、でも命乞いなんてしていない。
 そもそもオレはなにも犯していない。
 いや、オレたちは、だ。
 同胞を殺すなんて出来るわけがない。

    沈黙。

男 お定まりの連鎖ってやつさ。
 前世代からの遺恨。
 それだけで……。
女 悪いことの循環に限って繰り返し続けるのね。
 歴史の連鎖。
 それだけで捕らわれて……。
 ってこと?
男 ああ、身にまったく覚えのない罪をきせられて……。

    沈黙。

男 処刑の実行班に回された日の朝に、作業着やあり合わせの食い
 ものなんかを盗み出して……。
 試し撃ちをする名目を使って逃げ出してきたんだ。

    男、拳銃を弄ぶ。

男 こいつには仕掛けがしてある。
 普通には使えないように。

    男、拳銃を置く。

男 それを伝えるのを忘れてたんだ。
 だから戻ってきた。
 下手に弄ると暴発の恐れがある。
 でも、ちょっとした操作で使える。
 護身用くらいには役に立つ。
女 いらないわ、そんな物騒なもの。
 持って行ってくれない?

    男、拳銃を手に取る。

男 奴等の拳銃にも仕掛けをした。
 手入れをするからと偽って。

    男、拳銃をズタ袋に入れる。

男 さてと、じゃあ……。
女 ええ、無事を祈るわ。
男 え、ああ……。
女 あ、おかしいわね。
 救世主の無事を祈るって。
男 ふふ、まあ……。
 野獣や蛮賊に襲われて果てるくらいなら、いっそ追っ手にでも
 捕まって磔にされた方がいいかな?
 見せしめとして。
女 ふふ、じつはね、あなたがそうなることを望んじゃったりした
 の。
 そういう終幕が神格化されるには相応しいかななんて。
男 ずいぶん正直だな。
女 うぅん、もちろん本気じゃないの。
 ただの妄想みたいなものよ。
 それにいま言うことじゃなかったわね。
 言ったそばから後悔してる。
男 そちらのお仲間はどうしちゃったんだ?
 まさか最初からひとりってわけじゃ……?

    沈黙。

女 それは本当に知らないから聞いてるの?
 想像もつかない?
 それとも……?
男 いや、いい。
女 私たちだってなにも犯してなんかいないわ。
男 ああ、そうだと思う。
 同じだよ。
 オレたちと。
女 信じるものが違うというだけで……。
男 うん、人種が違うというだけで……。
女 連れ去られて……。
男 突然有無も言わせずに……。
女 なんて理不尽なこと……。
男 ああ……。
女 私のいない間に……。
男 うん?
女 その時私は出かけていたの。
 泉から戻ったら誰もいない。
 走り書きされた紙が置いてあったわ。
 もしまだここに残った者がいるならすぐに改宗せよ。
 真の神に心を委ねよ、条件も選択肢もない。
 って。
男 矯正施設のような所に連れて行かれたのか……。
 オレたちとはまたべつの地獄だ。
女 恐らく聞かれたはずよ。
 お前ら五人のほかに誰かいるのかって。
男 五人だったのか……。
女 もちろん、もういないって答えたでしょう。
 私でもそうするわ。
男 ここにいたら、いつどうなるかわからないんじゃないのかな?
女 そうね、そうかもしれないわ。

    沈黙。

男 よかったら……。
 一緒に……。

    女、首を振る。

女 行くあてなんてないもの。
男 オレだってない。
 でもここにいるよりはマシなはずだけど……。
女 あなたは少しでもマシな方を選ぶといいわ。
 私はここで終わりたいから。
 あなたと私が同じ運命を辿るわけにはいかないもの。
男 ここで終わる?
女 ええ、でもあなたは自由よ。
 行き着くところまで行って、生きられるだけ生き延びた方がいい
 わ。
男 ふふ、ああ……。
 オレの役目はとっくに終わっているみたいだし。
女 ごめんなさい。
 いろいろとありがとう。
男 いや……。
 少しは役に立てたのかな……?
女 ええ、もちろんよ。
男 磔にされるっていうのもいいかと思ったけど、下手すればそれ
 も良くない連鎖のきっかけになるような気もするな。
 まあ、どっちにしてもオレのうかがい知れぬことだけど。
女 私もよ。
 あなたのことが書かれた教典は戻っては来ないわ。
 人づてに伝わって、少しずつ出来上がって、長い時間を経て……。
男 読み広がるのかな……?
女 ええ、うまくいけば。
男 うまくいけばか……。

    沈黙。

女 行って。
 私が見届けたことになっているから。
男 え。
女 書いたの。
 本の文末に一行だけ。
 私が。
 救世主は四度目の新月の翌朝に現われ、六度目の朝に去った。
 修道女はそれを見送った。
 って。

    沈黙。

男 あれからふた月か……。

    男、器の中の花びらを掬い取る。

男 うまくいくかもしれないな。
 少なくともここまではあんたの筋書き通りだ。
女 また言った。
 あんた?
男 あ、いや、そちらの……。
女 ねえ、ナツメラの実、もっと持っていかない?
男 もう十分もらったからな。
 ああ、そう……。

    男、花びらを器に戻し、ズタ袋の
    中を探る。
    中から球根大の木の実を取り出す。

男 もの売りの老人から売りつけられたんだ。
 そちら様にもひとつ。

    女、木の実を受け取る。

女 なに?
男 確かオルブカって言ってたな。
 その木の実だって。
 砂漠の保存食らしい。
女 へえ、はじめて知ったわ。
男 皮を剥けばそのまま食べられる。

    男、木の実の皮を剥く。

男 うん?
女 断食中なの。
男 ああ……。

    男、女の傍へ。

男 そちら様も変らなきゃ。
女 え。
男 連鎖を止めるのは……。

    男、女のベールを剥ぐ。
 
男 そちらの役目じゃないか。
 終わるんだろ?
 始まるために。

    沈黙。

女 そうね。
 ねえ。
男 うん?
女 おいしいの、これ。
男 さあ、でも期待はしない方がいいかな。
 いや、そうだな……。

    男、女から木の実を取り上げ、
    軽く握る。

男 こうしてさ。

    男、木の実に気持ちを込める。
    
男 よし、ほら。

    女、木の実を受け取る。

男 少しは違うかもしれない。
女 そう。
男 ふふ。
女 ふふ。

    二人、木の実の皮を剥いている。

    明りゆっくりと絞られる。
    やがて暗転。

    了




 
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